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【基礎知識】集団的自衛権をめぐる憲法解釈はどう変遷してきたか?

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1950年、自衛隊の前身、警察予備隊発足。整列する隊員(毎日新聞社)

1950年、自衛隊の前身、警察予備隊発足。整列する隊員(毎日新聞社)

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前のめりの首相に党内の空気は

 2月12日、安倍晋三首相は衆院予算委員会で、「権利を有してはしているが、行使はできない」という現行の集団的自衛権の憲法解釈を変更する考えを重ねて強調した。そのうえで「最高責任者は私だ。政府の答弁は私が責任を持って、その上で選挙で審判を受ける」と述べた。

 この発言は、長年にわたって積み重ねられてきた憲法解釈であっても、政権の判断によって変えることは可能と公言したに等しいことから、野党のみならず自民党内からも、「あれが許されれば、選挙で勝った政権が、そのつど、憲法を好きなように拡大解釈できる」(村上誠一郎・元行革担当相)、「解釈変更と憲法改正は表裏一体。解釈変更でどこまでできるのか、整理が必要だ」(船田元・党憲法改正推進本部長)など異論があいついだ。

 しかし安倍首相の勢いは止まらなかった。2月20日の衆院予算委員会でも、「集団的自衛権は持っているが行使できないことで、さまざまな事象に対応できない。はたしてどうか」「安全保障環境が大きく変わった。国民の生命・財産を守るために他国の協力が必要だ。今のままの解釈でいいのか」と、集団的自衛権の行使を容認すべき必要性を説いた。

1952年、警察予備隊が保安隊に改組。特車(軍隊用語を避け戦車とは呼ばなかった)を見物する子供たち(毎日新聞社)

1952年、警察予備隊が保安隊に改組。特車(軍隊用語を避け戦車とは呼ばなかった)を見物する子供たち(毎日新聞社)

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半世紀にわたり堅持された憲法解釈

「集団的自衛権」とは、自国と緊密な関係にある同盟国が武力攻撃を受けた場合、自国が直接攻撃されていなくとも、参戦する権利を有していることをいう。国連憲章第51条は、すべての加盟国に対し、「個別的自衛権」(=自国への攻撃に反撃する権利)とともに、集団的自衛権を認めている。

 さらに、現行の日米安全保障条約は、前文で「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」たうえで、第5条において「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動する」と定めている。ではなぜ、集団的自衛権は行使できないという政府解釈が生まれたのか。

 1946年に公布された日本国憲法は、9条2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を規定した。しかし1950年、朝鮮戦争が勃発すると、米国は、当時日本の占領に当たっていた米軍のほとんどを朝鮮半島に派遣せざるを得なくなり、その軍事的空白を埋めるために、日本に警察予備隊の創設を命じた。国内の保安のためという理由だった。51年、サンフランシスコ講和条約とセットで結ばれた日米安保条約が発効すると、警察予備隊は保安隊に改編(52年)。ついで54年、日米相互防衛協定が結ばれ、自ら防衛力増強の義務を負うことになって誕生したのが自衛隊である。

 最小限度の防衛力の保持とはいえ、こうして軍備の増強が進められる過程で、「戦力の不保持」を謳った憲法9条との整合性が問われるようになっていった。自衛隊が発足した54年には、佐藤達夫・内閣法制局長官が自衛権の発動には(1)わが国に対して急迫不正の侵害がある、(2)侵害排除のために他の適当な手段がない、(3)実力行使は必要最小限度、という三要件が必要である、と国会で答弁した。

 以来、米ソの二大超大国が対立した冷戦下と冷戦終結後を通じ、日本政府は半世紀以上にわたって、自衛隊が実力行使できるのは「自衛のためであり、かつ必要最小限度」という条件下のみというタガをはめてきた。言い換えれば、集団的自衛権の行使は、自衛隊の行動範囲の「限度を超える」という解釈がなされてきたのである。憲法解釈や政府提出法案の事前チェックを行う「法の番人」と呼ばれる内閣法制局も、歴代の長官が「現行憲法は集団的自衛権の行使を禁じている」と国会で答弁し、その解釈を変えることはなかった。

1970年11月1日、自衛隊記念日恒例の観閲式が東京・神宮外苑で行われた。警察予備隊発足から20年にあたり、佐藤栄作首相、中曽根康弘防衛庁長官、各国大使、駐在武官ら約1000人が出席、陸海空自衛官と防衛大生約4800人が行進した=中村太郎撮影(毎日新聞社)

1970年11月1日、自衛隊記念日恒例の観閲式が東京・神宮外苑で行われた。警察予備隊発足から20年にあたり、佐藤栄作首相、中曽根康弘防衛庁長官、各国大使、駐在武官ら約1000人が出席、陸海空自衛官と防衛大生約4800人が行進した=中村太郎撮影(毎日新聞社)

限界に達している政府解釈

 米ソの軍事力が均衡した東西冷戦の下では、西側諸国の一員でありアメリカの核の傘に守られていた日本は、本土の防衛以外のことを考える必要もなかった。在日米軍も、安保条約の条文どおり「日本の平和ならびに極東における平和及び安全の維持」を主任務としていたため、とりわけ集団的自衛権が問題となることはなかった。

 しかし1989年から91年にかけて、冷戦が終結しソビエト連邦が崩壊すると、軍事バランスが崩れ安全保障環境は激変する。そうした状況変化を背景に、日米で協議されたのが「日米安保の再定義」だった。日米同盟の強化を進めれば進めるほど、日本政府の集団的自衛権に関する憲法解釈との整合性がクローズアップされるようになった。

 97年に決定された「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)では、“周辺事態”における米軍との相互支援活動が打ち出され、99年には、戦闘行為が行われる可能性のない「後方地域」に限って、自衛隊が米兵の捜索・救助を行ったり、燃料や食料など武器弾薬以外の物資を提供できるとする「周辺事態法」が成立する。「直接相手を殺傷する兵器でなければ、米軍に物資を提供しても集団的自衛権の行使には当たらない」というのが政府の説明だった。しかし、戦闘地域を「前線」と「後方」に分けること自体むずかしく、集団的自衛権の行使に当たるのでは、という批判も強かった。

 次に集団的自衛権が議論されるようになるのは、2001年9月11日に起きた米同時多発テロの直後からである。米国を中心とした多国籍軍が組織され、テロリスト掃討作戦が始まった。自衛隊も国際社会の要請という名目の下、多国籍軍艦艇への燃料補給活動やイラク復興支援活動などに参加、その活動範囲を大きく広げることになった。

 イラク復興支援においては、他国の軍隊と共に活動することは集団的自衛権の行使に当たるため、自衛隊の活動は多国籍軍の指揮下に入らない独自のものとされた。しかし一方で、自衛隊はオランダ軍やオーストラリア軍に守られて活動しているのに、彼らが襲撃されたとき、自衛隊が救援や応戦ができないのはおかしい、それでは「他の参加国から信頼を得られない」という批判が起きた。

 北朝鮮の弾道ミサイル開発を受けての日本の対応も同様だった。自衛隊が導入を決定したミサイル防衛(MD)網の整備は、米軍との密接な協力関係のもとに進められたため、集団的自衛権の行使を禁じた従来の憲法解釈との整合性が問われたのである。

 自衛隊のMDは、敵国から発射された弾道ミサイルを、海上自衛隊のイージス艦から発射するSM-3ミサイルによって大気圏外で破壊し、さらに撃ち漏らして大気圏に再突入した弾頭を、航空自衛隊のPAC-3ミサイルで撃墜するという二段構えのシステムで成り立っている。PAC-3による迎撃は、日本領空で行われるため「個別的自衛権」の範囲に入るが、SM-3が大気圏外で撃破したミサイルが、もし日本ではなく米国を狙ったものであった場合、それは集団的自衛権の行使に当たるのではないかというわけである。しかし、米国本土に向かって日本上空を通過するミサイルを見過ごせば、日米の軍事同盟は意味をなさなくなる。

 そこで05年、自衛隊法が改正された。弾道ミサイルの迎撃要件を「弾道ミサイルその他その落下により人命又は財産に対する重大な被害が生じると認められる物体」が飛来するおそれがあり、落下による被害を防止する必要があるとき、と定めたのである。「その他」にはミサイルの部品が含まれる。つまり、たとえ米国を狙ったミサイルでも、日本領空で推進部分が切り離され落下する危険があるから、これは撃墜できる、すなわち個別的自衛権の範囲である、という説明が可能になった。

 こうして、日本の安全保障環境の変化とともに、従来の憲法解釈が自衛隊のあり方と齟齬をきたせばきたすほど、政府および外交当局、研究者らの間で、米国と対等な関係を築き、国際貢献のできる国になるためには、集団的自衛権の行使を認めるべし、との声が大きくなっていった。

 一方、米国はこの時期、軍の再編を進めるとともに、在日米軍の活動範囲をアジアから中東、アフリカに広がる「不安定の弧」へと広げていた。それには自衛隊の協力が不可欠だった。米国が、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授やリチャード・アーミテージ元国務副長官らの知日派を通じて「集団的自衛権を行使できるようになれば、より緊密で効率的な安全保障協力ができる」と、日本側へ改憲あるいは解釈の変更を働きかけるようになったのにはそうした背景があった。

宿題は第2次安倍政権へ

 安倍首相は、第1次組閣の翌年、07年5月に私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)を発足させた。その初回会合で首相は、(1)公海上で海自艦艇と並走中の米国監船が攻撃された場合の応戦、(2)同盟国の米国を狙った第三国の弾道ミサイルをMDで迎撃、(3)PKOで自衛隊と共に行動する他国軍への攻撃に対する応戦、(4)前線への武器輸送などの後方支援の拡大――という“4類型”を集中的に検討してほしいと要請した。

 安保法制懇は、4類型のいずれの場合も集団的自衛権の行使を認める必要あり、との提言を、07年11月までに出す予定で議論を進めた。だが、9月に安倍首相が辞任。後を受けた福田内閣、続く麻生内閣は「ねじれ国会」の対応に苦慮したこともあって、集団的自衛権の議論に踏み込むことはなかった。結局、福田内閣に提出された安保法制懇の提言は棚ざらしにされることとなる。

 しかし、12年12月の総選挙によって第2次安倍内閣が成立すると、首相はすぐに安保法制懇を復活させ(13年3月)、集団的自衛権の行使容認へ向けて議論を進めるよう指示。さらに13年7月の参院選で大勝すると、議論を加速させることを表明した。8月には、内閣法制局長官に、内部昇格の慣例を破って第1次内閣で安保法制懇の事務方を務めた小松一郎・駐仏大使を充てる人事を発令する。

 10月に開かれた安保法制懇では、安倍首相が冒頭、「自国のみを考えた安全保障政策では尊敬や友人を失う。ともに守り合うことで、国民の生存と国家の存立、国益を守れる」と述べ、第1次安倍政権当時に提起された4類型に加えて、(1)日本近隣で武力攻撃した国に武器を供給するために航行している外国船舶への立ち入り検査や、米国への攻撃を排除することができるか、(2)米国を攻撃した国に武器を提供した外国船舶への検査は可能か、(3)日本の民間船舶が航行する外国の海域で機雷除去ができるか、(4)国連安保理決議にもとづいて多国籍軍が組織された場合、自衛隊は参加できるか――といった事例についても、集団的自衛権の行使を容認することによって可能となるかが議論された。

 12月に初めて策定された国家安全保障戦略(NSS)でも、軍備増強を続ける中国の尖閣諸島付近への領海侵入や防空識別圏の設定に懸念を示し、「日米安全保障体制の実効性を高め、多面的な日米同盟を実現していく」として集団的自衛権の行使容認をにじませた。日本が米軍と共同作戦を展開する場面として想定されるのは、これまで中東やアフガンを除けば北朝鮮ミサイルの発射だったが、ここ1年の間で、さらに中国との領海紛争が加わった。

鍵を握る連立与党の公明党

 安保法制懇の報告書が提出されるのは、平成26年度予算成立後の4月。したがって政府は6月22日の国会閉幕までに憲法解釈の変更についての結論を出すとみられている。1月12日には、安全保障を担当する礒崎陽輔・首相補佐官が「国会が終わってからというのでは、敵前逃亡のような感じがある。国会中にしっかりと決めたい」(フジテレビの番組)という考えを示した。

 安倍首相も2月20日の衆院予算委員会で、「閣議決定して案が決まったら(国会で)議論いただく。それに沿って自衛隊が活動する根拠法がないのであるから、自衛隊法を改正しなければならない」と、憲法解釈の変更については、先に閣議決定で行う方針を表明した。

 これに対し、連立を組む公明党は、支持母体の創価学会が反対していることから慎重な姿勢を崩していない。漆原良夫国対委員長はメールマガジンで「『国民の声を聴く』という一番大切な部分が欠落しており、到底賛成できない」と批判。山口那津男代表も2月13日の党中央幹事会で「従来、政府は行使を認めないと解釈している。変えるならば、なぜ変えるか、変えた結果が国民や同盟国や近隣諸国にどう影響するか。深く慎重に検討する必要がある」と述べた。

 2月25日に安倍首相と会談した山口氏は、4月に安保法制懇の報告書が出てから与党協議を始めることには合意したが、創価学会幹部は行使容認について「学会員に理解してもらうには1年ぐらいの時間は必要だ」(朝日新聞2月26日付)と語ったという。閣議決定には公明党の太田昭宏国交相の署名が必要である。太田氏本人は首相の姿勢に同調しているが、党内で強い反対が起きるのは必至で、とてもすんなり署名、とはいきそうもない。

 自民党も一枚岩ではない。党内リベラル勢力を代表する谷垣禎一法相は、3月7日に記者団の質問に答え、「憲法解釈があまりに不安定だと国家のあり方そのものも動揺してしまう。憲法解釈は極めて安定性がある必要がある」と、憲法解釈変更による行使容認には慎重な姿勢を見せた。手続きに関しても「特に憲法解釈は国民の理解を取り付ける必要がある。手順・段取りを踏むことが大事だ」と、国会での審議が必要ではないか、との考えを示した。