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【基礎知識】日本はなぜ憲法を改正できなかったのか

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日本国憲法の公布文の上諭に毛筆で御名を記す天皇裕仁(諡号:昭和天皇)。米マッカーサー記念館で見つかった写真で、左側に「裕仁」の宸筆自署(1946年10月29日撮影)(毎日新聞社)

日本国憲法の公布文の上諭に毛筆で御名を記す天皇裕仁(諡号:昭和天皇)。米マッカーサー記念館で見つかった写真で、左側に「裕仁」の宸筆自署(1946年10月29日撮影)(毎日新聞社)

世界で14番目に古い日本国憲法

 日本国憲法は、第2次世界大戦が終わって2年後(1947年)に施行されて以後、一度も改正されることなく、67年を迎えた。戦後日本では、この憲法を明治憲法(大日本帝国憲法)と区別する意味で、“新憲法”と呼んできた。だが、いまやこの憲法は、成文憲法を持つ世界188カ国のなかで14番目に古い憲法となった。しかも、それらの古い憲法は、どれも改正されているので、日本国憲法は、改正されていない、世界でもっとも古い憲法ということになる。現憲法が明治憲法同様、「不磨の大典」(不磨は不朽の意、旧憲法は1890年の施行以後、一度も改正されなかった)といわれるゆえんである。

 なぜ日本国憲法は、改正されないのか。

 現憲法は、明治憲法第73条の改正手続きにしたがって改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されていた

 占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフに、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な社会制度を廃止すること、という三つの原則を貫くよう指示した。目的は、欧米が主導する世界秩序に、日本が二度と逆らうことのないよう、国の骨組みと国民の意識を変えることだった。

新憲法施行・祝賀の花火(1947年5月3日撮影)(毎日新聞社)

新憲法施行・祝賀の花火(1947年5月3日撮影)(毎日新聞社)

 その意図がもっとも明確に表れているのが、憲法第9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。狙いは、それまでの日本の国のかたちを解体することにあった。

 改正案は、1946年6月に昭和天皇の臨席のもとに枢密院で可決され、第90回帝国議会(衆議院と貴族院で構成)に上程された。衆議院では、第9条第2項に「前項の目的を達成するため」という文言を挿入し、自衛権の発動に道を開いた「芦田修正」など、わずかな修正が加えられたものの、8月にほぼ政府の改正案(=GHQ草案)どおりに可決された。さらに10月の貴族院の可決をもって帝国憲法の改正手続きを終了し、11月3日に新憲法として公布された。

同じ敗戦国の西ドイツが59回も憲法改正したわけ

 1907年に結ばれたハーグ陸戦条約(日本は1911年に批准、翌12年に「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」として公布)には、第43条で「占領地の法律の尊重」が掲げられている。占領地の権力を掌握した占領者が、自らの意に沿う法律を被占領国に押しつけることを戒めた条項だ。この条約にしたがえば、かりに他国軍の占領下で一時的に憲法が制定されたとしても、主権の回復がなされれば、国民の意思による新しい憲法がつくられるのがふつうということになる。

 日本と同じように敗戦国となったドイツでは、連合軍の占領下に、州ごとに憲法がつくられた。しかし、1949年、英・米・仏軍の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)臨時政府が樹立されると、西ドイツ政府は各州憲法を破棄し、ドイツ連邦基本法(憲法)を制定した。基本法と名付けたのは、占領下のドイツが東西に分断されていて(東ドイツにソ連軍が、西ドイツに英・米・仏軍が駐留し、ベルリンも壁で分断されていた)、西ドイツ政府首脳の頭の中に「ドイツが一つになる前の、まだ暫定的なもの」という思いがあったからだ。

 だが、自由主義陣営に占領された西ドイツは、完全に主権を回復した1955年以降も、基本法を廃棄して新憲法を制定することをしなかった。かわりにまず1956年に基本法を改正した。そして徴兵制を導入するとともに、ドイツ連邦軍を編成して本格的な再軍備をおこなった。連合国を刺激しないようにとの配慮もあったが、大きな理由は、社会主義国、ソビエト連邦の傘下にある東ドイツを置き去りにできなかったこと、もう一つは、東西冷戦(米・ソ対立)を背景に、西ドイツはソ連の軍事的脅威にさらされていたからである。同じ年、西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。1990年、ようやく東西ドイツが統一されるが、その後も新憲法を制定せず、基本法を順次改正して今日にいたっている。

 ドイツ基本法は、1956年に再軍備を明記して以後、緊急事態条項の追加(1968年)、予算・財政改革のための改正(1969年)など、西ドイツ時代だけでも35回、東西ドイツの統一のときと、その後を合わせると、改正は2013年までじつに59回に及ぶ。新憲法を制定せずに、改正を積み重ねることで自前の憲法につくりかえていったのである

 そのほかの国では、アメリカ合衆国憲法(1788年制定)が制定以来18回(戦後6回)、フランス憲法(第4共和国憲法と第5共和国憲法)が27回、イタリア憲法(1947年制定)は16回の改正を経験している。

なぜ日本は主権回復と同時に憲法を改正しなかったか

 1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し、自由主義陣営に属すことになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効、日本は主権を回復。このとき同時に結んだのが、米軍の駐留継続を認める日米安保条約である。自主憲法制定の機会があったとすれば、このときだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受けつけなかった。戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。

 当時の世界は、米国(自由主義=西側)ソ連(共産主義=東側)の対立を背景に、米ソどちらの陣営に属すかによって、その色分けができていた。朝鮮半島では韓国と北朝鮮が衝突、米軍と中国・ソ連軍を巻き込んで、朝鮮戦争が勃発した(1950年)。共産主義勢力のアジア進出を警戒した米国は、このとき、終戦直後の日本を弱体化するこれまでの政策を変更し、反共(反ソ連、反中国)の砦として育成する方針を決めた。日本に講和条約締結をすすめるいっぽう、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めたが、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。

 これが、のちに国防より経済を優先する「軽武装国家」論(吉田ドクトリン)として、巷間流布されることになる。しかし、その本心は違っていたともいわれる。再軍備について吉田は、自著『世界と日本』
(中公文庫)のなかで、次のように省みている。

〈それ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まらないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい〉

 このとき吉田が危惧したのは、後に続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、独立国としての自立心を喪失することだった。その後の1955年、自由党と民主党という二大保守政党の合同によって、自由民主党が誕生する。このとき結党の精神である「党の使命」に謳われたのが、「自主憲法の制定をはじめとする独立体制の整備」である。一方、社会主義政党もこれに対抗、諸派が合流して日本
社会党を結成する。掲げられたスローガンは「護憲と再軍備反対」だった。保守対革新の二大政党による「55年体制」の成立である。

国会で固定化した「賛成2・反対1」の構図

 この両政党が激突した最初の国政選挙が、1958年、第一次岸信介内閣のもとで実施された第28回衆院選挙であった。76.99%という異常に高い投票率のなか、公約に「自主憲法の制定」を掲げた自民党が、定数467のうち287議席(議席率61.5%)を獲得。これに対して、「護憲」の社会党は166議席(議席率35.5%)。自民党は圧勝したとはいえ、憲法改正発議に必要な3分の2を超える議席獲得にはいたらなかった。日本国憲法は、帝国憲法73条と同じように、96条の改憲規定で「3分の2の壁」が設定されており、容易に改正できないようにしてある硬性憲法であることが改めて認識されることになった。

 その2年後(1960年)、国論を二分した日米安保条約の改定がなされ、経済成長が軌道に乗ると、日本社会は急速に安定志向に向かうようになり、国政選挙では、政権与党の自民党(「総資本」の代表)対社会党(「総労働」の代表)+野党の議席率は、つねに2対1で推移するようになった。いい換えれば、政権が安定するかわりに、自民党は憲法改正を発議できる国会議席の3分の2以上を獲得できないまま、「55年体制」が固定してしまったのである。

 さらに日本国憲法の改定を念頭に1956年に発足した政府の憲法調査会(会長:高柳賢三・東大名誉教授)が、8年に及ぶ長い調査期間を経て、1964年、改憲についての特段の結論を出さないまま最終報告書を提出すると、政府・自民党の自主憲法制定への情熱も急速に冷め、政権運営の軸足を、社会インフラの整備など高度経済成長路線へと移すようになった。

 もう一つ、終戦後から高度成長期にかけて、国民のなかに護憲=反戦平和という考え方が浸透していたことも見逃せない。その中心を担ったのが、GHQの民主化政策で奨励された労働組合の力だった。組合は民間企業だけでなく、教育現場や現業公務員においても組織された。

 日本の雇用者数は、終戦後は1100万~1200万人で推移していたが、経済成長、人口増加とともに増大していった。1957年には2000万人を超え、1966年には3000万人を突破した(その後も増加して1978年に4000万人、1986年に5000万人を超え、1997年に5400万人台に達してからほぼ横ばいに)。このうち労働組合の組合員数は、1947年に569万人だったのが、1954年には609万人、1961年836万人、1965年1015万人と右肩上がりで上昇し、1973年には1200万人台を突破した(その後は横ばいから減少に転じ、現在は980万人程度)。

 これらの労働組合を糾合して労働運動のナショナルセンターとなったのが総評(日本労働組合総評議会)だった。総評は、1950年に365万人の労働者が加盟して発足した。春の賃上げ時期には、全労
働者の代表として経団連や日経連などの経営者団体と中央交渉をおこない、総資本対総労働の闘いを演出した。政治的には、日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の活動に力を入れた。賃上げ交渉の場では「昔陸軍、いま総評」と恐れられ、政治の場では「憲法改正反対、第9条を守れ」と主張する有力な勢力となった。

立憲主義を前提とする憲法観

 もう一つ、憲法改正に立ちはだかる大きな壁に、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊義氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選びとった、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省とあいまって、アカデミズムのメインストリームを形成していたのである。

 憲法9条の改正論で知られる小林節・慶大教授がと護憲派の水島朝穂・早大教授が、「世界」2013年7月号誌上で対談しているが、小林教授が〈権力の行使がある限り、権力者を縛って乱用を予防する憲法が必要になるのです〉と述べたのに対し、水島教授は〈憲法が権力者を制限する機能を持つという点で二人は完全に一致しました〉と応じている。

 9条の改憲では対立する2人に共通しているのは、憲法の根幹は立憲主義であり、憲法は公権力を規制する道具である、とする憲法観だ。この憲法観は、「人権は天与の自然権」とする「社会契約説」に通じ、いまも憲法学の主流といってよい。

 他方、最近では、ごく一部だがドイツ国法学の「国家法人説」や「国家有機体説」に立つ学者の間で、憲法はコンスティテューション(政治的統一体としての国家の構造や組織)の訳語であって、その国の
国柄に沿った統治の基本レールと解釈すべき、と主張する人たちも出てきた。その根底には、近代西欧で生まれた「天賦の普遍的な人権」と「社会契約による国家の成立」というルソーの思想と、それに基づいた設計主義的な憲法観に対する疑念がある。

国民の間に広がりつつある改正の気運

 1991年、ソビエト社会主義が崩壊し、東西冷戦が終結すると(このとき日本はまだバブルの絶頂期だった)、日本社会も、いわゆる左右(進歩主義対保守主義、あるいは社会民主主義対自由民主主義)をへだてる分水嶺が取り払われ、さらにバブル経済が崩壊すると、価値観がいっきに多様化した。イデオロギーによる峻別は通用しなくなったのだ。とりわけ保守派に混乱を生み出したのが、アメリカ型市場原理=グローバルスタンダードだった。市場主義による規制緩和は、かつての日本の伝統的ルールや日本型成長システムを根底から壊すものだった。

 これにともなって親米保守、反米保守、民族保守と、保守の側に亀裂ができ、憲法改正の考え方も、日米同盟を深化させるための憲法改正、あるいは対米従属から脱却するための自主憲法の制定と、それぞれ軸足の置き方に違いが生じることになった。しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことは間違いなく、この頃には、憲法改正はすでにタブーではなくなっていた。

 世論調査でも、憲法改正に賛成する声が反対を上回るようになった。読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から賛成派が過半数を超えるようになった(2008年だけは反対派が僅差で上回り、直近の2014年の調査では賛成42%、反対41%とほぼ並ぶ結果となった。読売新聞2014年3月14日付)。

 各新聞社をはじめ学者、民間団体からも独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察がおこなわれ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明らかにされた。

集団的自衛権と憲法9条との整合性をどうとるか

 憲法第9条をめぐっては、湾岸戦争をきっかけに国連平和協力法(PKO法)が成立(1992年)、1990年代なかばには日米安保再定義により日米同盟の深化が議論されるようになるなど、長い間、政府解釈で封印されてきた集団的自衛権の行使についても見直しすべきだという声が高まってきた。その背景には、冷戦時代に抑え込まれていた部族・民族対立が噴出し、世界各地で地域紛争が勃発するという安全保障環境の変化がある。

 これにともなって国際貢献が叫ばれるようになり、国内が活動の舞台だった自衛隊は、PKO法の成立以来、アンゴラ、カンボジア、モザンビーク、コソボなど世界各地の国連平和維持活動に参加するようになった。世界各国の安全保障観を変える事件が起きたのは、まさにこうしたときだった。2001年9月11日、アメリカの中枢都市を襲った反米イスラム勢力による同時多発テロである。

 アメリカはその元凶が、イスラム原理主義を信奉するアルカーイダ勢力と、これを支援するイラクにあるとして、翌10月、国連安保理の決議を待たずに、アルカーイダの拠点であるアフガニスタンをただちに攻撃。2003年3月には、イギリスやオーストラリアなど有志連合を募り、イラク戦争に踏み切った。世界の国土防衛における仮想敵は、国家からテロ集団に移ったのである。

 2001年のアフガン作戦の遂行にあたっては、自衛隊がテロ特措法に基づいてインド洋で各国戦艦への給油作業を展開。自衛隊の海外派遣部隊は、派遣地でジャパニーズ・アーミーとして軍隊の扱いを受けることになった。ここにいたって自衛隊はすでに憲法第9条が禁じた戦力であり、“解釈改憲”では整合のとれない存在であることが明白になった。

 一方、この10年間でGDP(国内総生産)と国防費を約4倍に膨らませ、G2時代(米中2国による世界秩序)を見据えるかのような、中国の東アジアへの野心的な海洋進出も見逃せない。尖閣諸島の領海・領空を脅かす中国、核とミサイル開発を続けながら日本を威圧する北朝鮮――東アジアの緊張の高まりが日米同盟と自衛隊への依存度をかつてないほど高めているのも事実だ。

 こうした内外の安全保障環境の変化を背景に、第一次安倍内閣のときに急浮上したのが、日米同盟を強化するための集団的自衛権の行使容認と、まずは憲法改正手続きのハードルを低くするという「96条先行改正論」だった。

 集団的自衛権は、これまで歴代内閣において「わが国は集団的自衛権を保有しているが、国際紛争を解決する手段として武力の行使を禁止している憲法第9条にかんがみると、行使できない」という考えが政府解釈として踏襲されてきた。この政府解釈を変更し、想定されうる緊急なケース(類型)では、集団的自衛権行使を容認すべき、と考えたのが第一次安倍内閣だった。安倍首相は私的諮問機関として有識者による安保法制懇(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)を立ち上げ、容認に向けて議論を始めた。しかし、首相の病気辞任によって解釈を変更するにはいたらなかった。

 このテーマは第二次安倍内閣にも引き継がれた。解釈変更に積極的な外務省出身の小松一郎氏が内閣法制局長官として異例の任命を受けるなど、政府解釈変更への布陣がなされ、安保法制懇による見直しが進められた。

「憲法改正の高い壁」とは何か

 憲法第96条では、憲法改正の発議には「衆・参各議院の総議員の3分の2以上」が賛成しなければならないとしている。ということは、国会議員の3分の1が反対ないし棄権すれば、発議すらできないことになる。憲法改正に見えない高い壁が存在する――いい換えれば、国民が改正を望んでも、国会が自らその道を閉ざしているというわけである。こうして2007年、第一次安倍晋三内閣が成立させたのが、「日本国憲法の改正手続に関する法律」(国民投票法)だった。

 第一次安倍内閣が国民投票法案を提出したのは、まずは国民の間に憲法のあり方について広く議論を喚起するという点にあった。憲法第96条には、国会で発議された改正案を国民が承認するには「投票において過半数の賛成が必要」であるとは規定されているが、それは投票総数の過半数なのか、有効投票の過半数なのか、といった細則までは明記されていない。国民投票法では、これを有効投票の過半数と明記。また国民投票に参加できる年齢を、世界の趨勢にあわせて18歳以上にし、幅広い世論形成を求めた。このとき同法の施行までに3年間の凍結=準備期間を設定したのは、成人を20歳以上としている民法や、選挙権を20歳以上に与えている公職選挙法との整合を待つためだった。

 しかし、その後民主党政権が成立、国民投票法は3年が過ぎても関連法令の整備が進まず、放置されたため、2012年に成立した第二次安倍内閣では、各党に呼びかけて国民投票法改正案の準備を進め、2014年4月、自民、公明、民社など与野党7党が「法施行の4年後に投票年齢を18歳以上で確定する」という改正案を国会に上程した。しかし、投票年齢との整合性を取るための民法や選挙法など関連法令の整備は、今後に先送りされた。

 それでも、この国民投票法改正によって、自民党内には改憲に向けた歩みが「一歩前進した」と評価する見方がある。「3分の2の壁は帝国憲法を受け継いだものであって、GHQが日本を再武装させないために課したものではない」「アメリカ憲法にも『連邦議会は両議院の3分の2以上が必要と認めるときは、この憲法に対する改正を発議する』と3分の2のハードルがある。それでも憲法改正がおこなわれている」とする議論も出てきて、96条先行改正論は色あせてきているのが現実だ。じっさい、直近の選挙で、衆議院、参議院とも自民党が圧勝し、3分の2のハードルの壁が低くなっている。

主要国における憲法改正手続と戦後の改正

主要国における憲法改正手続と戦後の改正

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「緊急事態」条項に賛否――改正への険しい道程

 自民党は2012年4月に憲法改正草案を発表。「憲法改正の発議」については、衆参各議院の総議員の「3分の2以上」を「過半数」とし、改正のハードルを低く設定した。さらに、天皇を国家元首として明記、国旗は日章旗、国歌は「君が代」、国防軍の保持、集団的自衛権の行使、緊急事態条項を追加するなど、改正案は、これまでの憲法論議を踏まえたものとなった。この自民党案に対して、とくに安全保障については異論が続出した。

 森英樹・名古屋大学名誉教授(憲法学)は、自民党が「緊急事態の章」を新設したことにとくに注目し、次のように述べている。

 〈「大規模自然災害」などのときは、政府に権限を集中させ、基本的人権を停止し、法律を制定しなくとも政令で国民を国の指示に従わせたりする規定が盛り込まれている。震災があり、不安定な朝鮮半島情勢や中国との尖閣諸島問題など東アジアの「軍事的緊張」も高められてきた。これらを「緊急事態」で一括しても、国民の支持を得られると考えたに違いない。その陰で、この草案は自衛隊を「国防軍」に変え、非常権限を政府に集中させる方向を打ち出した。自民以外の改憲主張も同じだ。震災を奇貨とした「震災便乗型」「惨事便乗型」ともいうべき新手の改憲論だ〉(東京新聞2012年5月3日付)

 一時的にせよ国家権力が強大になることについて、立憲主義の立場からの批判である。

 反対に、西修・駒沢大学名誉教授は、自民党の改憲草案発表に先立って、〈私が1990年初頭から2011年末までに新しく制定された98カ国の憲法を調べたところ、緊急事態対処規定を設けていない憲
法は皆無であった。(中略)一時的に権力を執行府に集中させ、人権を必要最小限、制約して、憲法秩序の維持を優先させることは、立憲主義の原則と何ら矛盾しない〉(産経新聞2012年3月5日付)と、
「緊急事態条項」の創設を擁護した。

 この自民党の憲法改正案は、逐条的に形式を整えた改正案として現段階では唯一といってよい。他の政党の改正案は部分的なものでしかなく、前政権与党だった民主党も、もともと憲法観に大きな違いのあるグループが糾合して結党に党内にいたったという経緯もあって、条文改正案にまではとうていたどりつきそうもない。

 そんななか、4月10日、衆院憲法審査会は、国民投票法改正案の審議に入った。ただ、憲法審査会が開催されたのは2013年11月28日以来のことで、議論は遅々として進捗していない。憲法改正への道のりは、いぜん遠い。