経済

TPPは私たちの「たべもの」を変える枠組みである

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記者会見でTPP交渉参加を表明する安倍首相(2013年3月15日、藤井太郎撮影)(毎日新聞社)

記者会見でTPP交渉参加を表明する安倍首相(2013年3月15日、藤井太郎撮影)(毎日新聞社)

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 静かに、とても静かに、日本人のたべものを大きく変えていこうという動きが進行している。残念ながらその動きは私たち日本人が自律的に決められるものではない。私たちの識(し)らないうちに、たべものを巡る状況が大きく変わろうとしているのだ。その動きは、目に見えるものとしてはTPP、日豪EPA、そして農協・農業改革という形で表れている。

「交渉の阻害要因は農業」という、つくられた構図

 原稿執筆時点では交渉が停滞しているものの、TPP交渉が続いている。TPPは自由貿易をめざす協定で、民主党の菅政権のもとでいきなり日本が参加する方向となり、交渉が続けられた。ここであの有名な、前原元外相の「GDPが1.5%の第一次産業のために、98.5%の他産業を犠牲にしてよいのか」発言が出たことで、TPP問題は「農業vs.他産業」という矮小化された構図で世に認知されることとなった。

 しかしこれは巧妙な“仕掛け”である。農林水産業の従事者が激減し、経済優先・消費者重視を旨とするメディア報道の中、農業に対する世間のまなざしは厳しい。「保護されすぎ」「補助金漬け」といったイメージで塗り固められた農業が他産業の足を引っ張っているという見せ方をすれば、世論は推進の方向へ進むだろう――そんな思惑が推進派に微塵もなかったとはいえないはずだ。

 実際、その仕掛けはうまくはたらいたかのように見えたが、実のところTPPとは農業問題だけではなく、医療や労働にエネルギー問題、著作権や特許に関わる権利問題、広範なサービス分野にまでまたがる問題であるということが露呈してしまった。いまやTPPに関する議論は、農業以外の分野の方がホットに見えるくらいである。

 ただし、依然としてTPP問題は食の分野に大きな影響をもたらすことが確実である。そこで一つ提案したいのだが、TPP問題と言ったときに反射的に「農業」を思い浮かべることをやめてはどうか。その代わりに私たちの「たべもの」というキーワードをはめ込んでみて欲しい。そう、TPPとは私たちのたべものを変えてしまう枠組みだ、と言い換えるのである。その瞬間に、多くの国民が「えっ」と耳を澄ますだろう。これまで日本で認可されてこなかった食品や添加物が大量に出回る可能性が高く、それを止めようとすれば非関税障壁だと言われる枠組みを推進しようとしていることに気づいたとき、国民はいったいどんな意思表示をするだろう。

日豪EPAの大筋合意とTPPの行方

 TPP交渉は停滞していると書いたが、その最も大きな原因は、TPP交渉をスピード感もって進めてきたはずの米国にある。オバマ政権は、政府主導でTPP交渉を進め、決定するための権限をTPA(貿易促進権限法)を通すことで得ようとした。TPAが通ると、議会にいちいち諮る必要なく条件を決定することができる。しかし2014年の1月、有志の議員が提出したTPAに対して、上院と下院の双方で多数の反対の声があがったという。TPPが包含する分野は多岐にわたり、どれをとっても議会で慎重な審議をしなければならないようなことばかりである。しかしオバマ政権は議会に対し情報公開や根回しを十分にせず、どちらかといえば一部の大企業の意向を反映させる形で進めていると受け取られたようだ。そういうわけで、おそらく早期にTPP交渉が妥結する見込みはないのではないか、というのが現状である。オバマは窮状にあるとする見方もあり、なんとなくTPPに反対する人達の間で安堵感が拡がっているようだ。

 しかし依然として、たべものの枠組みを変えていく動きは継続していると見るべきだ。先日、日本とオーストラリアの間で7年間もの交渉を続けてきた日豪EPAが大筋合意となった。多国間協定であるTPPが発効される前に、二国間の貿易協定であるEPAをオーストラリアと結ぶことでアメリカをけん制し、TPP交渉で譲歩を引きだそうとしているのではないか、という見方もできる。こうした動きが功を奏するかどうかは注視する必要がある。

 この日豪EPAでたべものに関わる話題と言えば、牛肉と豚肉の関税削減である。牛肉に関しては、いま38.5%の関税をかけているのを段階的に、冷蔵牛肉は15年後には23.5%へ、冷凍牛肉は18年後に19.5%まで引き下げることになった。数字だけを見ると、日本はこの分野において大幅に譲歩したような印象がある。しかし実際には、完全削減で輸入がバンバン行われるようになっても、ある一定の数量を超えると、「ここから先は関税を元に戻します」と発動することができるセーフガード(*1=編集部注)という安全装置がついている。そのセーフガードが発動する基準数量は、最近の輸入実績より少し多めというくらいで、なるほどオーストラリアにとっては「ちょっとは多めに輸出できる」という量で、日本にとっては「少し増えるけど、我慢はできる」レベルと言えるかもしれない。いわば絶妙な線をついているというわけだ。しかも15~18年もかけて税率を下げていくので、その間に国産の競争力を上げます、ということで国内からの批判をかわすこともできる。日豪EPAの関税問題はそんな綱引きがあったと考えている。

 もちろんTPPに対しても日本は同じような戦略で臨んでいるはずで、関税の撤廃ではなく削減、それもセーフガード付きという落としどころを米国に持ちかけていると思われる(「はず」や「と思われる」などというあいまいないい方をしているのは、基本的にはTPP交渉は秘密裏に進められているというタテマエがあって、新聞などがたまにリークまがいの記事を出しているが、それを鵜呑みにすることはできないからである)。

 果たして米国が国内政治問題を片付けてTPP交渉を進展できるのか、この時点では不明である。

農業界にとって最もホットな1カ月

農協の仕組みと改革案

農協の仕組みと改革案

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 TPPは海外との関係性の問題だが、つい最近、たべものを巡る国内問題の大きなテーマが浮上した。5月22日に政府の規制改革会議が答申をまとめた「農協改革」問題である。そこでは全国の農協の指導的立場にある全国農業協同組合中央会(全中)制度の廃止と、農産物の販売事業をまとめる全国農業協同組合連合会(全農)の株式会社化、末端の単位農協が行う金融事業の移管などが改革案に盛り込まれていた(図参照)。

 ここから農業を巡る様々な立場の議論が沸き起こる。というと、一般のニュースしかみていない人達は「そうだっけ?」と思われるかもしれないが、農業界ではここ数年で最も濃い議論が交わされた1カ月間といってよい状況であった。結果的に自民党内部からの反対も多く、改革案は「全中廃止」ではなく「新しい組織形態へ移行」となり、農協勢力を配慮した文言へ修正された。しかしそれでも林農相は「現行の中央会制度が存続することはない」と発言し、安倍首相は「今までのような法定の形の中央会のあり方は廃止していく」と明言した。

 ところで、その全中っていったいどんな組織で、廃止するとどうなるの? というのがほとんどの一般の反応だろう。農協の指導組織である、と言ったところで具体的なイメージは湧かない。簡単に言ってしまえば全中は、全国の農協を代表して政治的なはたらきかけを行う組織だ。つまり政府からみれば圧力団体の実行部隊である。そこを廃止してしまえば、政治的まとまりを崩すことができ、これまでなかなか進まなかった農地問題や農業への新規参入の要件緩和などを一気に進めることができるのではないか。そうした狙いがあることは間違いない。

食の生産システムをどうすべきかが議論されていない

 確かに、いま日本の農業は大きな岐路に立っている。いや、すでに10年ほど前から岐路に立ち続けていると言っていいだろう。農家戸数は減少し、65歳以上の生産者が大勢を占め、リタイアしていく者は多いのに新規就農者は少ない。農地の委譲はなかなか進まず、耕作放棄地は依然として多い。企業の新規参入の事例が増え、メディアでも盛んに煽られているものの、黒字化を達成しているのは全体の1割程度で、実際には上手くいっていると言い難い状況だ。

 しかし、だからといって、いまあるパラダイムをいきなり打ち壊してしまってよい、というものではない。農協組織は地方の各地域にとっては総合商社のごとき存在であり、金融組織であり、保険・共済組織であり、医療・福祉組織である。自治体とまではいわないが、自治体と同じように地域と結びついた組織であり、様々な機能を果たすように成長してきた。銀行などの金融機関では融資対象とならない農家を拾い上げ、また独自で販売することのできない農家の作物を集荷してまとめ、市場に送って有利な価格になるように交渉する。冷徹な新自由主義経済システムにおいてはありえない、そうした緩衝地帯として作用する農協の枠組みがあったからこそ、低いなりにも40%の食料自給率(*2)が達成できていたという見方もできる。

 その枠組みをこわして新しい秩序をつくろうとするのを否定はしない。日本の農業システムを変えていかねばならないのは事実だからだ。しかしそのためには、まず私たち日本に住む国民はこの先、どんなたべものを選択するのかということを明確にした上で、システムをデザインする必要があるのではないか。その議論はほとんど行われていないのが現状である。

 ここで再び冒頭のテーマに戻る。TPPやEPA、農協・農業の改革問題は一見すると経済の問題として語られるべきテーマに見える。しかしそれだけでは、本質を見失ってしまう。経済問題であると同時に、私たち日本人の「たべもの」を変えていく問題でもあるのだ。この先これらの問題がどの方向に進展していくのかはまだわからない。しかし、経緯を見守る国民ひとりひとりの胸の内に「これはわたしの食べるものが変わる話かもしれない」という意識が芽生えると、何かが変わるのではないかと思う。その変化はきっと佳いものであるはずだ、と期待する。

【筆者が推薦する基本図書】

●鈴木宣弘『食の戦争――米国の罠に落ちる日本』(文春新書、2013年)

●山本謙治『日本の「食」は安すぎる――「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない』(講談社プラスアルファ新書、2008年)

●山本謙治『日本の食力(しょくぢから)――国産農産物がおいしい理由(わけ)』(家の光協会、2009年)

【編集部注】

*1 セーフガード

特定の品目の輸入が増大して、国内産業に重大な損害を与えている場合、発動できる輸入数量制限または関税の賦課措置。WTO(世界貿易機関)によって認められている。日本で実際に発動されたのは、ネギ、生シイタケ、畳表(イグサ)の3品目を対象にした暫定セーフガード(2001年4月)。これに対し輸入元である中国は報復措置として日本製の自動車・携帯電話・エアコンに100%の関税をかけた。しかし、このときは日中双方が協議し、結局、確定セーフガードにはいたらなかった

*2 食料自給率

食料自給率にはカロリーベースと生産額ベースがある。前者は国民一人の1日の総供給カロリーのうち、国産供給カロリーが占める割合を意味し、後者は食糧全体の消費額のうち国内生産額が占める割合を意味する。通常、食料自給率といえば前者を指すが、卵や肉は、国産であっても飼料に輸入品を使っている場合は「自給」にカウントされないため、食料自給率は40%に満たないことになる(食料輸出国である米国は130%、カナダは223%)。農水省は2020年の目標を「50%」としているが、近年は「こうした数値は現実的でない」として45%にする議論が出てきている。