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解説

【基礎知識】「琉球」から「日本」へ――沖縄の辿った道

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戦闘で瓦礫と化した首里の街を行く米兵(1945年)(毎日新聞社)

戦闘で瓦礫と化した首里の街を行く米兵(1945年)(毎日新聞社)

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独立国家・琉球王国

 沖縄県那覇市の県立博物館には、1458年に琉球国王が鋳造した「万国津梁(しんりょう)の鐘」が置かれている。銘文には「(琉球国は)舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」(船をもって万国の架け橋とし、諸国の宝がいたるところに満ちている)とある。かつて沖縄が独立国として海運貿易で栄えた歴史を伝える文言だ。

 14世紀後半、中国大陸に成立した明(みん)は、明商人の国外交易を禁止した。代わりに近隣諸国に朝貢を促し、応じた国には進貢貿易を認めた。琉球王国も明に朝貢し、海上の要衝にある地の利を生かして東アジア全域で中継貿易を行った。

 16世紀、ポルトガルやスペインが東南アジアに進出し、明商人も海禁を解かれて海上交易を始めると、琉球の中継貿易は陰り、王国の力も衰退した。これに追い討ちをかけたのが、1609年の薩摩の琉球侵攻だった。薩摩は、表向きは琉球王朝の統治を存続させたが、奄美を薩摩の直轄領に組み入れたほか、検地を行って年貢を徴収した。対外交易も掌握し、中国大陸で明から清への王朝交代があった後も、朝貢を続けさせた。以来、琉球は薩摩を介して日本に服属し、同時に清にも朝貢するという日清両属を強いられたのである。

内地人の差別意識

 明治の廃藩置県で、明治新政府が直面した最大の難問は、琉球の日清両属だった。新政府内では意見が割れた。「日清両属を絶ち、版籍奉還を図るべし」という井上馨。日清連合して西欧列強と対抗するという立場から、「琉球を明確に日清両属とし、琉球人を日本人と区別する」という大隈重信。「清国との交渉で琉球の日本専属を認めさせよ」という山県有朋……。

 議論の末、新政府は1872年、琉球王国を琉球藩に格下げし、国王を藩主とした。75年には琉球の清国への朝貢の停止を命じた。次いで79年、琉球藩を廃し、沖縄県を設置する。これが「琉球処分」(沖縄では「琉球併合」と呼ぶこともある)といわれた一連の措置である。 

 本土への同化政策は、この時期から始まった。先導役を担ったのは、本土から赴任した県官吏、警察官、軍人、教師や各分野の商人たちだった。彼らは琉球人に同化を強いる一方、頑迷固陋な民とみなし、劣等視した。「琉球処分」から9年後の1888年、沖縄を旅行した内地人の見聞記に〈当地にて内地人の威張る有様は、丁度欧米人の日本に来て威張ると同じ釣合にて、利のある仕事は総て内地人の手に入り、引合わざる役回りは常に土人に帰し、内地人は殿様にて土人は下僕たり〉と差別を認めながらも、〈優勝劣敗の結果にて、如何ともすべからざる訳なれども、亡国の民ほどつまらぬものはなし〉とある(「琉球見聞雑記」琉球政府・沖縄県教育委員会編『沖縄県史』14)。内地の一般民衆も、沖縄人に故なき優越感をもって接していたのだ。

 1903年には、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の「人類館」に、中国人、朝鮮人、アイヌ、台湾原住民、さらに「琉球人」を展示するという事件が起きた。当時の「琉球新報」は、「沖縄差別を助長する」と激しく告発している。

 太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年3月~6月)では、住民約10万人が、米軍に追われ敗走する日本軍とともに島内を逃げ回り、犠牲になった。将兵の多くは内地人であり、行動を共にした住民に対して差別的に振舞うことも少なくなかったという。

1945年6月20日、米軍が伊江島に上陸、その3日後、沖縄の戦いは終わった。雨中の泥道を3キロ歩き、投降する伊江島の住民 (毎日新聞社)

1945年6月20日、米軍が伊江島に上陸、その3日後、沖縄の戦いは終わった。雨中の泥道を3キロ歩き、投降する伊江島の住民 (毎日新聞社)

 それでも、沖縄人は軍に協力し、日本人として献身的に戦った。青壮年(17~45歳)は召集に応じ、中学校や師範学校の男子は「鉄血勤皇隊」、女生徒は「看護婦隊」として戦闘に加わった。海軍沖縄根拠地隊司令官だった大田実少将(最終階級は中将)は、自決する直前に海軍次官に宛てた電報で、県民の敢闘ぶりについて詳しく報告し、最後にこう書き記した。――沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後生特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ。

 しかし、敗戦後の沖縄県民に待っていたのは、「特別の高配」どころか、米軍政統治下に置かれ、事実上、米国の軍事植民地となるという過酷な運命だった。米軍統治は日本が主権を回復した1952年以降も続いた。土地を強制収用し基地の建設・拡充を行い、本土にあった米軍施設の多くを移設した。県民は、基地に囲まれた土地に息を潜めて暮らすことを余儀なくされ、度重なる米兵の犯罪にも脅かされることになった。

 沖縄の施政権が返還されるのは1972年5月、敗戦から27年目のことである。

地政学上の重荷

 本土復帰が実現しても、すべてが本土並みになったわけではなかった。県の面積が日本全体の0.6%にすぎない沖縄に、在日米軍専用施設の75%が集中するという過酷な現実は、復帰後も自動的に受け継がれ、米国による軍事植民地の面影は色濃く残されたままだった。

 地政学的に見れば、沖縄は、ロシア、中国、北朝鮮を封じるラインを形成する中心点、「扇の要」に位置し、朝鮮半島有事にも台湾海峡有事にも即応できる戦略的要所となる。沖縄への基地集中問題を議論するとき、しばしば持ち出される論拠だ。裏を返すと、それは“本土の盾”としての沖縄論でもある。

 沖縄には、ほんの500年前まで、その地政学上の利点を生かし、東アジア全域で万国の津梁(架け橋)となったという誇るべき歴史が刻まれている。そしてもう一方には、先の大戦で日本人として犠牲的に戦ったという記憶がある。「本土も応分の負担を」という議論に表向き反対する国民はいないが、普天間基地に配備されたオスプレイが本土に分散配備されようとすると、関係市町村からは猛烈な反対運動が起こる。沖縄の過重な負担を認めながら、わが町の負担はできれば避けたい本土住民。なぜ沖縄だけが……沖縄県民と本土の住民との深い溝をどう埋めたらよいのか。いまだ答えは出ていない。