政治

【再録・日本の論点】今も昔も、日本の独立と繁栄のための軍事植民地 それが沖縄である

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1945年4月1日、猛烈な艦砲射撃の後、沖縄本島・嘉手納海岸に上陸する2万の米軍。艦船は1300 (毎日新聞社)

1945年4月1日、猛烈な艦砲射撃の後、沖縄本島・嘉手納海岸に上陸する2万の米軍。艦船は1300 (毎日新聞社)

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「琉球王国」から「琉球藩」そして「沖縄県」へ

 沖縄はもともと日本本土から遠く離れていて、風土的にも言葉にも差がありすぎる上に、歴史の出発が12世紀ごろで、日本のそれより1000年も遅れている。

 琉球国として独自の王国をなしていたが、まもなく明国の冊封体制にはいって、国王は明国(のちに清国)皇帝の冊封(さくほう)を受けるようになった。

 ただ、土地の私有制が確立しないまま、日本の戦国時代が終わるころの1609年に、薩摩の島津氏の侵略(*1=編集部注)を受け、その後300年間も、その植民地支配を受けた。薩摩は、搾取をしながら土地の私有を認めなかったから、日本が元禄時代にはやくも資本主義の萌芽が見えるはたで、琉球は近代的な生産性、合理主義が育たなかった。

 明治維新に突入した日本政府は、近代的な国防体制を築く上で、琉球国を併合することを考えた。その後に、近代国家として富国強兵に走ったが、近代化の遅れた沖縄県民をそれに無理に伴走させた。歴史の出発の遅れと薩摩の植民地支配体制が、ここにわるく影響した。

 1871年(明治4年)に、日本政府は琉球併合に着手し、翌年に交渉の使者として、松田道之という、大臣から三番目の階級にあたる能吏を、琉球処分官という名で派遣した。

 交渉の出発として、まず王国を廃して「琉球藩」とし、「廃藩置県」の伏線をしいた上で、日本の領土としての体制を整える八カ条にわたる項目の実行をもとめた。要求の第一は、清国との交流を断て、ということであった。

 旧王国の為政者たちは抵抗し、攻防が七年間つづいたが、業を煮やした日本政府は、ついに軍隊をもって首里城を占拠し、「藩王」を東京へ転居せしめた。これで琉球王国を完全に無にした。

 沖縄県設置は1879年(明治12年)4月4日。しかし、これに清国からクレイムがつき、日本政府はたまたま、かねて締結していた日清修好条規(*2)の改約を求めていたので、引き換えに宮古、八重山の諸島を清国に割譲する意向をかためた。琉球を無理に併合しながら、その後に琉球を外交の道具にしたのである。この取引はしかし、清国が受け入れないために、うやむやになった。歴史上、分島・改約問題という。

県民を苦しませ続けた日本人への同化

 明治維新後に、8年ぶり最後の廃藩置県だが、沖縄県では諸制度の近代化が半端なまま、精神だけを「日本人」に同化させる政策が出発した。置県の翌年に小学校が置かれ、『沖縄対話』と題する、日琉対訳の会話教本が作られた。方言撲滅、標準語励行運動の元祖である。

 政府は、沖縄県内の士族層が清国への未練を断ちかねて、なかなか日本になじまない思惑に遠慮がちであったが、それは1895年(明治28年)の日清戦争の勝利までであった。やがて、政府の姿勢が強硬になり、沖縄県民に諦めが生まれ、小学校では「天皇/日の丸崇拝」が流行し、1893年(明治26年)に新聞が創刊されると、その論調はまもなく日本への同化を基調とした。

 日清戦争が終結したあと、1903年(明治36年)までに、議会制度、徴兵令施行、海外移民のはじまり、土地整理(私有制の完全な出発)など、遅蒔きの近代社会が走りだした。

 県民大衆の願いは、差別からの解放であり、その裏返しとしての同化であった。大正時代から昭和期にかけての沖縄県民精神の基本は、植えつけられた劣等感を脱けることと、そのために標準語に習熟することであった。

文学作品の基調音は同化志向と劣等感であった。

たとえば、1910年(明治43年)に次の短歌が発表されている。

「山といふ山もあらなく川もなきこの琉球に歌ふかなしさ」(長浜芦琴)

 ここには、文学に本土の後追いをする姿勢のみが求められている。この姿勢を脱皮して土着に誇りをもつのは、戦後のことになった。

 その先に、第二次世界大戦終結の地としての沖縄戦があった。中等学校生は男女ともに準軍人として戦ったが、その傍(かたわら)で一般民衆は、軍隊と渾然となって敗走しながら、兵隊との差別的な接触に苦しんだ。大本営の戦略は、米軍の本土上陸を遅らせるために、それを沖縄で食い止めて時間を稼ぐことであり、そのために県民が多大の犠牲(*3)を払うことに、遠慮がなかった。

 それでも県民が命をかけて軍に協力したのは、もっぱら日本人として認められたかったからにほかならない。

日米安保の締結は第二の「琉球処分」

 敗戦を迎えた。米軍はそのまま旧日本軍の用地をふくめて土地を占有し、占領体制を布(し)きはじめた。住民は、祖国との連絡を絶たれたまま、基本的人権を認められない異民族支配に甘んじることになった。

 沖縄は日本でなくなった。さりとてアメリカになったのでもない。住民は、食うだけの生活の中で、将来の「帰属」について考えはじめた。独立しようにも、王国体制のノウハウは、近代日本人になる過程で去勢されていた。日本人として生きなおすことができるかどうか、自信はなかったが、異民族の差別的統治に甘んじるよりはと、祖国復帰を選び、望んだ。祖国から求められて命がけで戦った上での、口惜しい結論であった。

 そのようにして迎えた1951年(昭和26年)、サンフランシスコ平和条約の締結であったが、条約の基本は、日本が「独立」するために沖縄の住民をアメリカの支配にゆだねるというものであり、同時に締結された日米安全保障条約は、日本に米軍基地をおいて日本を守るというものであったが、基地の大方は沖縄に集中された。それは第二の琉球処分といってよい。こうして、日本は軍事費を免れて高度経済成長を約束されることになり、5年後の1956年(昭和31年)には『経済白書』で、「もはや戦後ではない」と豪語するにいたった。そこに沖縄への配慮はなかった。

 「祖国」の高度成長に放っておかれた沖縄の孤独な生活は、米軍のわがままな軍用地接収(安すぎる賃貸料と無制限の接収)との戦いに、代表的にあらわれた。

芽生えた戦闘的な沖縄

 1972年(昭和47年)に日本への返還/復帰が実現したが、政府はこの機会に本土での米軍駐留への抵抗運動をやわらげ、沖縄に基地を集中させることに努めるとともに、軍用地賃貸料を一気に6倍に引き上げ、さらに2002年(平成14年)までに7倍(「復帰」前の42倍)に上げて、地主を不労所得に馴(な)れしめ、麻薬に似た依存体質をつくった。県土面積が全国の0.6%というのに、米軍基地が74%に上るという不条理が、全国に疑いをもたれていない。

 ただ、異民族支配を一応脱けて、復帰特別措置による経済発展の影響もあって、文化の独自性を主張する兆しが見えた。1980年代になると、芸能の面で琉球文化を主張する傾向があらわれ、文学にも土着の自信がたかまり、かつて方言が蔑視され、土着に劣等感をもった時代から、はるかに脱皮してきた。2000年(平成12年)以降の戦闘的な沖縄は、ここからつながっていると思われる。

 この上向き志向に水をかけたのは、1995年(平成7年)に起きた、米兵による女子小学生暴行の事件である。

 たまたま、しばらく前から普天間基地の移設要求がある。基地と住民がこのように接触している風景はアメリカにもないと言われるが、沖縄では日常的な風景であり、あわせて米兵が沖縄を植民地とみなしているかのような犯罪の横行は、許しがたいと、連動しての抗議行動が起きている。

 さらに、治外法権容認にも等しい日米地位協定の改定を求めているが、政府は安保体制を優先して米政府に遠慮している風に、応じる気配がない。

 日米政府は普天間移設の要求を沈静化させるために、本島北部・辺野古(へのこ)のキャンプ・シュワブ周辺海岸に移設する案を立てたが、これでは朝三暮四に過ぎないとして、県民の大方は、旧来の保守政党さえも加わって、県外移設を主張している。

 沖縄が日本の国内軍事植民地としての地位を脱ける契機はあるのか。

 (この論文は、ご本人の了解を得て『日本の論点2012』より再録させていただいたものです)

【付記】

 戦後に個人的差別はほぼ消えたが、「構造的差別」があるといわれる。沖縄の基地を本土の県知事が引き受けると、次回の選挙で落ちる。それを新聞が批判すると購読が減る。だから知らぬ顔でいる。眼に見えない差別だ。(2014年8月)

【筆者が推薦する基本図書】

●大城立裕『休息のエネルギー―アジアのなかの沖縄』大城立裕全集第13巻(勉誠出版、2002年)

●大城立裕『小説 琉球処分』(講談社文庫、2010年)

●新崎盛暉『沖縄現代史』(岩波新書、2005年)

【編集部注】

*1 薩摩の島津氏の侵略

1693年3月、山川港を出港した薩摩島津軍は、鉄砲730挺、軍船100艘余に3000人余の軍勢が乗り込み、当時琉球領だった奄美大島、徳之島、沖永良部島をつぎつぎに攻略。4月には首里(那覇)に到着した。鉄砲隊の威力に圧倒された琉球側は、ほとんど抵抗せず降伏。和平を申し出た。

*2 日清修好条規

1871年、日本は大蔵卿の伊達宗城、清国は直隷総督の李鴻章が全権大使として調印し、73年に批准・発効した日清間の修好・通商条約。日本側の正式名称は「大日本大清国修好条規」。清国側の名称は「互換条款」。その第一条には「此後、大日本国ト大清国ハ弥(いよいよ)和誼ヲ敦ウシ、天地ト共ニ窮マリ無カルベシ。又両国ニ属シタル邦土モ各々礼ヲ以テ相待チ、聊(いささかも)侵越スル事ナク永久安全ヲ得セシムベシ」とある。この条約に基づき、両国は国交を結び、互いに開港して領事を駐在させ、領事裁判権をもつことを認めた。通商関係は欧米に準じる協定関税率を認めた。日本が初めて外国と結んだ対等条約だった。

*3 県民が多大な犠牲

太平洋戦争末期の1945年3月23日、米軍の空爆で始まり、悲惨きわまる国土決戦となった沖縄戦は、26日、米軍の部隊が慶良間諸島へ上陸。29日までに本島以外の諸島全域を制圧する。各島内の守備軍や島民は追い詰められて山中に避難したが、阿嘉島、渡嘉敷島では、避難した住民が日本の将兵に殺されたり、慶留間島、座間味島、渡嘉敷島では集団自決に追い込まれた住民も少なくなかったという(『沖縄県の歴史』山川出版社刊より)。4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。6月23日までの約3カ月間に、約8万6400名の日本軍と約23万8700名の米軍が激突し、日本軍約6万5000名、米軍1万2000名が戦死したほか、沖縄の住民約10万人が戦闘に巻き込まれて命を落とした。