日本の実力

このままでは海外の学生と差がつく一方

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積極的に留学生を受け入れる新興国

 ユネスコ統計研究所の集計によると、他国の大学や大学院で学ぶ留学生は2012年に400万9300人に達し、2000年に比べて倍増した。

 留学生を最も多く送り出しているのは中国で、2000年の14万人から2012年には69万人を超えた。インドも6万人から18万人に、韓国も7万人から12万人に、ベトナムにいたっては9000人から5万人に急増している。背景には日本と同じく高齢化の進む欧州の大学が、少子化対策として外国人学生を積極的に受け入れようとしていることがあげられる。

 他方、留学先としての新興国の人気も高まっている。留学生受け入れ人数の国別ランキングでは米・英・独・仏・豪が上位5カ国だが、その5カ国が占めるシェアは徐々に下がっており、ロシア(6位)、中国(9位)が順位を上げている(日本は7位)。新興国では、シンガポールが米イェール大の分校を、マレーシアが英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の分校を、アブダビ(アラブ首長国連邦)が米マサチューセッツ工科大(MIT)やニューヨーク大の分校をそれぞれ開設、高等教育の充実に力を入れる。アブダビでは、ほとんどの学生にオイルマネーを原資とした奨学金が支給されることから、欧米からも学生がやってくるという。

 1990年代以降、ITや金融の分野から始まったグローバル化の波は教育にも押し寄せ、学生や教員、資本が国境を超えて移動するようになり、外国で学位を取得した「グローバル人材」が、国籍に関係なく世界の労働市場で評価されるようになった。大学側も、優秀な学生を集めるため、よりよい研究環境(実験設備や予算、助手の数など)や報酬を提示して、各分野で一流の研究者を引き抜こうと躍起だ。日本人研究者も例外ではない。近年では東大から認知心理学の下條信輔氏が米カリフォルニア工科大へ、教育社会学の苅谷剛彦氏が英オクスフォード大へ、再生医療の中内啓光氏が米スタンフォ
ード大へそれぞれ移籍している。

世界大学ランキング100位以内は東大と京大のみ

 国境を超えた人材の争奪戦に大きな影響を与えているのが、大学の国際ランキングだ。英国の大学教育雑誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」(以下、THE)が米情報会社トムソン・ロイターと共同で毎年発表しているランキング(別表参照)では、1位の米カリフォルニア工科大以下、英米の大学がベスト10を占め、日本の大学でベスト100にランクインしたのは、東大(23位)と京大(52位)の2校にとどまっている。その東大も、アジアではいまのところ1位だが、近年はシンガポールや香港の大学が急速に順位を上げてきている。

 安倍内閣が、2013年6月に策定した「日本再興戦略」のなかで、今後10年間で世界トップ100大学に日本の大学を10校以上入れるという目標を掲げたのは、こうした現状を踏まえたものだ。文部科学省は「スーパーグローバル大学創成支援」を打ち出し、世界大学ランキング100位以内を目指す「トップ型」10校、社会のグローバル化を牽引する「グローバル化牽引型」を20校それぞれ公募、審査に通った大学はトップ型で5億円、グローバル化牽引型で2億~3億円の補助金が最大10年間交付される。

 THEランキングのトップ3大学と東大を評価指標ごとに比較すると、教育面ではカリフォルニア工科大の94.4、ハーバード大の95.3、オックスフォード大の89.0に対し東大は84.7と、大差をつけられているわけではないが、国際性においてはカリフォルニア工科大65.8、ハーバード大66.2、オックスフォード大90.2に対して東大は29.6と圧倒的に低い。また論文引用件数もトップ3が95を超えているのに東大は69.8にとどまる。

 グローバル化の時代では、アカデミズムもビジネス界も英語が事実上の共通語となっているため、英語を母語とする英米の大学がランキングで有利になる傾向があるのは否めない。「国際性や論文引用件数を高められるかどうかでベスト100に10校入れるかどうかが決まる。評価基準に合わせた戦略が必要」(下村博文文科相、「中央公論」2014年2月号)として、「スーパーグローバル大学」の審査基準も、教員と学生の外国人比率、日本人学生の海外留学経験者の割合、外国語による授業科目や外国語のみで卒業できるコースの割合など、英米の評価基準に合わせたものになっている。

英タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)の世界大学ランキング

英タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)の世界大学ランキング

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日本の大学が国際化できないわけ

 留学生の数を増やせば大学の国際性が評価され、ランキングの点数が上がる。近年、シンガポールや香港の大学が世界ランキングの順位を急上昇させているのは、英語が公用語である環境を活かして、外国から留学生や研究者を呼び込んでいるからにほかならない。新興国ばかりではない。オランダでは英語の授業だけで大学院の学位を取れるコースが多く用意されており、ミッテランやシラク、オランドらフランスの歴代大統領を輩出したパリ政治学院も、英語だけで学位を取ることができる。

 日本の大学も同様の取り組みをおこなっている。文科省の「国際化拠点整備事業」(グローバル30)に参加している13の大学では、英語のみの外国人向けコースが設置されている。東大も2012年10月から教養学部で「PEAK」と呼ばれる外国人向け特別プログラムをスタートさせ、留学生を集めるために約30カ国を訪問、約10カ国で面接を実施した。

 東大は、英語と並んで留学生の受け入れ・送り出しの「壁」となっている入学時期について、秋入学への全面移行を2012年1月に発表、濱田純一総長は「大学が変わることで社会を変える条件を作りたい」と意気込みを語った。これに対し、各地の国立大からも同調の声が上がり、経済界も「入学前の半年間に、留学やボランティア活動で力をつけられる。海外からの留学生も増えるだろう」(米倉弘昌・経団連会長=当時)と歓迎する意向を示した。

 ところが、企業が4月の一括採用を簡単には変えられない、弁護士や医師の国家試験も4月入学を前提にしている、などの理由で、結局、秋入学は見送られ、その代わりに導入が決まったのが4学期制である。(1)新入生に対し、最初の学期にグローバル化へ対応した導入教育をおこなう (2)学期の合間の6月から8月までの3カ月間に、海外の大学でおこなわれるサマースクールに短期留学できる (3)教員も国際学会などが集中する夏に、授業に縛られずに海外出張できる (4)学期の切れ目となる秋に海外からの留学生を呼び込むことができる――などの利点があるというのが4学期制導入の理由である。

英語で授業をおこなうことの是非

 英語による授業の導入は、留学生を増やすだけが目的ではない。専門分野でどれだけ実績を上げたとしても、英語で発信しなければ世界の研究者の目にとまることはないし、論文に引用されることもない、という現実があるからだ。大学が研究補助金を政府に申請するとき、申請書が英語であれば、政府は世界のトップレベルの研究者にその評価を委ねることができるが、現時点では申請も審査も日本語。このため、日本の学術研究が世界のネットワークから取り残されるという恐れがある。

 こうした日本語による教育の「弊害」を取り除くため、日本人学生に対しても英語のみで授業をおこなう大学が出現している。秋田県にある公立の国際教養大の授業は100%英語。しかも発表や議論を少人数クラスでおこなうから、学生は英語で明確に自分の考えを伝える能力を身につけようと努力する。同大の鈴木典比古学長は、「最初は帰国子女や留学経験者のほうが英語力が高く有利なようですが、2年、3年とたつうちに差はなくなります。むしろ学習意欲や理解力、思考力に優れた学生が成長していきます。英語漬けの中で伸びた学生が何人もいます」と、英語による授業の効果を指摘する(朝日新聞2014年7月3日付)。

 一方、「英語で授業をする必要があったのは明治初期、英語の教科書しかなかったころの話」(同)と批判するのは、英語教育研究者で『英語教育が亡びるとき』(明石書店)の著者もある寺島隆吉・元岐阜大教授である。寺島氏によれば、日本は翻訳のレベルが高く、出版力もあるため、大学の博士課程まで自国語で教育できる、アジアでは例外的な国だという。さらに、母語で深く思考できるからこそ、さまざまな学問分野で実績を残してきたのであり、「母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割」だと主張する。その後、専門分野に進めば語彙が限られるから英語の文献も難なく読める。しかし一般教養から英語で授業をおこなうとなると、おぼえる語彙は膨大になり、読める文献の数も減るというわけだ。また近年増加している「国際教養」系の学部では、わずかなアジアからの留学生を除けば教授も学生も日本人なのに、英語で授業をおこなう結果、専門知識の理解が不十分という声も聞かれる。

 それでも、グローバル人材を求める経済界の声に応え、英語教育に力を入れる大学が増えている。立教大学は、10年後に全学生に海外体験をさせる方針を発表。一橋大学も2018年度以降の入学者には、4週間の語学留学を必修化する。京大は2013年からの5年間で外国人教員を約100人増やし、教養科目の半分以上を英語での授業に切り替えることを決めた。近畿大学は、2年後の開設を目指す国際系学部で、語学教育会社・ベルリッツと連携し、新入生に対し同社のネイティブ教員による英語の集中授業をおこなうという。

 工学院大学は、英語の授業は欧米の語学学校に委託、それ以外の講義は大学の教員が現地に渡航して日本語でおこない、学生は現地でホームステイし英語や異文化に触れるという「ハイブリッド留学」を導入した。同大は「従来の留学からすれば邪道。しかし『英語のレベルが低いから海外に行けない』と考えるのでなく、まず行くべき」と述べている(毎日新聞2014年7月19日付夕刊)。

日本の大学生はなぜ勉強しないか

 グローバル人材が評価されるようになったということは、日本の大学生が海外の大学生と職を奪い合う時代に入ったことを意味する。すでに2013年の新卒採用では、パナソニックが国内350人に対して海外1100人、「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングが国内500人に対して海外950人と、世界展開している企業では海外での採用数が上回っている。また、採用コンサルティング会社・ディスコのアンケートによると、2014年度に日本に留学中の外国人を本社で「採用する」と答えた日本企業の割合は48.4%に達し、従業員数1000人以上に限れば、69.0%の会社が外国人留学生を本社採用する見通しだ。

 日本企業が外国人を新卒採用する理由として、彼らが語学に長けていること以上に、単純に比較しても海外の大学生のほうが優秀であることが大きいという。日本の大学は昔から「入るのは難しいが出るのは易しい」といわれてきた。事実、大学経営・政策研究センターが2007年に実施した「全国大学生調査」によれば、勉強時間が1週間に10時間以下の学生が85%、まったく勉強しない学生が10%近くもいた。それに比べ、全米大学生調査(NSSE)によると米国の大学生でまったく勉強しない人は皆無といってよく、6割以上が週11時間以上勉強する。18歳から22歳までの4年間をこうした学習態度で過ごせば、能力に著しい差がついて不思議はない。

 大学生が勉強しない状況が、なぜ長年放置されてきたのか。大学教育や就職活動の問題に詳しいNPO法人DSS代表の辻太一朗氏は、その理由を次のように分析する。

 これまで、大学教育の問題点を指摘する際は、(1)「ゆとり世代でやる気がない」「大学進学率が高すぎて全体のレベルが落ちている」など、大学生を悪者にする (2)「世間知らずの大学教員が、レジュメを読み上げるだけの授業をしている」というように大学を悪者にする (3)「就職活動の早期化が学業を妨げる」というように企業を悪者にする――の三つのパターンがあった。しかし、辻氏によれば、問題は学生・大学・企業の三者が互いに影響を与え合う「構造」そのものにあるという。つまり、

1 企業としては、大学の成績は当てにならないので採用の参考にしない。
→2 学生は、真面目に勉強しても得にならないので、単位が取りやすい授業を選択する。
→3 教員は、真剣に教育に取り組むほど学生が離れていく。それなら簡単に単位を与えて、自分の研究に力を入れたほうが、メリットがあるし、楽である。
→4 簡単に単位をくれる授業も多く、卒業だけなら簡単にできるので、学生は勉強しない。
→1に戻る

 という、負のスパイラルが完成しているというのだ(『なぜ日本の大学生は世界でいちばん勉強しないのか?』東洋経済新報社)。これにひきかえ、米国では、大学における平均点を企業が採用試験の事前選抜に使うことが多く、学生は勉強を頑張ることに現実的なメリットを見出す。実際、日本企業も海外で大学生を採用する際には、大学での成績を参考にしているという。

偏差値で大学評価してきた間違い

 大学を偏差値や就職先企業名によって序列化することに熱心なメディアや、本来、学業の集大成となるはずの4年次の多くを就職活動に費やさなければならない風潮も、日本では大学で何を専門的に学んだかが重要視されない証拠といってよい。

 前出の苅谷剛彦氏によると、それは戦後日本の産業構造に深い関わりがあるという。日本の産業発展は、海外から最新の技術や生産手法を取り入れ、企業ごと、職場ごとに独自の工夫や洗練を加えていくという手法をとったが、そこで社員を教育する主体となったのは大学ではなく企業だった。このため、学生に期待されたのは企業の与える仕事に速やか、かつ柔軟に適応する能力であり、結果として、採用担当者が大学側に「学生に真っ白な状態で卒業してきてほしい」と求めたり、「つぶしがきかず、使いにくい」と大学院修了者の採用を避けたりする文化が生まれたのだ。

〈重視されたのは、大学の「教育力」ではなく「入試の難しさ」でした。長い受験戦争に勝ち抜いた学生は、一定の基礎学力とともに、忍耐力、努力の習慣などを養っていたからです。私はこの能力を「訓練能力」と呼んでいます。まさに成長期の日本企業にとって、大学とはこの「訓練能力」を判定するための座標軸でした、だから日本企業も、社会も、「教育力」「専門性」よりも、受験の結果にすぎない「偏差値」を、大学の評価の対象とみなしてきたのです〉(苅谷剛彦、「文藝春秋」2014年7月号)

 明治以来、日本は官民問わず欧米の進んだ知識を取り入れることで発展してきた。オックスフォードやハーバードといった欧米の名門大学が、近代国家の成立よりも前から存在し、ある意味で大学に集う知識人たちが国を作ったといえるのに対し、日本では「国家が先にあり、西洋へのキャッチアップ、近代国家体制の整備という目的を達成するための機関」(苅谷氏)として大学が作られた。日本の大学では、教員が多数の学生を前に一方的に話す「講義」が中心で、成績評価も、試験やレポートで理解度が評価されるのに対し、欧米の授業は個別指導や少人数での議論が基本、成績評価も批判的能力や自分なりの思考展開が重視されるのは、そうした大学の成り立ちの違いゆえであろう。

「考える力」は大学で身につくか

 民主党政権時代の2012年11月、田中真紀子文科相が、すでに校舎建設など開学の準備を進めていた大学に対し、設置を認可しないという決定を下したことがある(後に撤回)。その手法が拙速だったと批判されはしたが、800近い大学のうち4割が定員割れを起こし、3割が高校レベル以下の補習授業をしているという現状で、田中氏の主張が国民から一定の支持を集めたのも事実である。

 ただ、大学進学率だけで外国と比較してみると、豪州の96%は特別としても、米国や韓国は約70%、OECD平均でも60%で、日本は52%とむしろ低い数字だ。少子化が進むなか、日本が潜在成長率を高めるには、生産人口=働く人一人ひとりの付加価値を高めるしかない。そのためには、 とりわけ大学において「論理的な思考で問題解決をしていく力」を養う必要があるのは、かなり前から指摘されていたことだ。

 就職・転職支援会社の日経HRが企業の人事担当者を対象におこなった社員の出身大学についてのイメージ調査で、総合1位となったのは京都大学。それは「地頭の良さ」や、課題にぶつかったときの思考力を評価されてのことだった。前出の辻太一朗氏も、「考える力」を育成・評価している大学を企業が評価し、採用の参考にするようになれば、上で述べたような負のスパイライルが逆転し、正のスパイラルになると述べている。

 世界各国の大学入学資格が得られる教育プログラム「国際バカロレア(IB)」を入試に取り入れる大学が増えているのも、IBが原則として英語でおこなわれ、議論や論文執筆などを通じ、自分で課題を見つけて解決する能力の育成に重点を置いているからだ。文科省も、海外の優秀な学生を獲得しやすくなるとして、IBを使った入試の普及を後押ししている。

 さらに、文科省が「スーパーグローバル大学」とともに公募した「大学教育再生加速プログラム」の中には、単なる講義でなく学生の能動的な活動を取り入れた授業を実施する「アクティブ・ラーニング」が含まれている。中等教育における「PISA型授業」にならって、高等教育でも「考える力」の養成に力を入れようというわけだ。

「ポスドク」の大量輩出はなくなるか

 人材の付加価値という点では、博士の人数も、日本は人口100万人あたり年間124人と、米国の239人、英国の323人、ドイツの313人に比べてぐんと見劣りする。中国や韓国などアジア諸国が博士の育成に力を入れていることを考えると、今後、国際競争力に与える影響は大きい。

 博士を目指す学生が少ないのは、将来に対する不安が原因だといわれる。1990年代半ばから進められた大学院重点化によって多くの大学が大学院を創設、それまで9万人ほどだった院生は2009年には26万人にまで膨らんだ。しかしその一方、大学や研究機関のポストは増えないから、博士課程修了者の就職率は12年度で67%にとどまっている。残りはといえば、任期が限られた研究員など不安定な立場に甘んじなければならない、いわゆる「ポスドク」(ポスト・ドクター)だ。文系になると、ポスドクの職すらなく、非常勤講師を何コマも掛け持ちし、専門と無関係なアルバイトを足してようやく年収200万円ほどという「高学歴ワーキングプア」も珍しくない。

 企業が博士を敬遠するのは、30歳前後の採用が年功序列型の人事体系に馴染まないという理由のほか、「専門分野に固執しがち」「視野が狭い」といった声、さらには博士号の質が低下したと指摘する声もある。質の低下は、とくに06年、文科省が博士課程の3年間で博士号を取得できるカリキュラムの整備を求めてから、その傾向が顕著になったという。

 2014年7月、STAP細胞問題で不正が疑われた理化学研究所の小保方晴子氏が過去に早稲田大学に提出した博士論文について、同大の調査委員会が「内容の妥当性、信憑性は著しく低い」とする報告書を提出した(博士号の取り消しには該当しないとした)が、その背景には、博士号の質の低下という問題があった。

 つい最近まで、日本の大学教員は、他の職業と比べて労働流動性が低く、一度常勤ポストに就くと定年まで変わらないのが普通だった。結果、ポスドクを渡り歩く若手がいる一方で、論文を発表せず、何年も同じノートのまま講義をおこなうような教授を輩出することになった。こうした現状に対して、文科省が打ち出した改革が競争原理の導入である。すべての大学に第三者評価が義務付けられ、教員にも業績評価が課されるようになり、さらに多くのポストに任期制が導入された。いまや博士課程修了者は大学や研究機関に職を得ても、安閑としてはいられないのだ。

 だが、こうした競争原理の導入には批判もある。

〈以前、終身雇用に近い雇用形態だった経験もありますが、そのときのほうが深夜までオフィスに残り、ずっと研究に没頭して成果も出していたからです。ところが、任期付きの雇用形態になってからという
もの、ともかく、大過なく過ごすことを目指すことになりました。任期期間中に成果が出る程度の研究テーマしか選ばなくなり、大きなものに挑戦しようという意欲が失せてしまいました。萎縮するんですね))(「中央公論」2014年2月号 大学教員による匿名座談会)

大学改革の成果が現れるのは、まだ先のことになりそうだ。