社会
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【基礎知識】人はなぜ逃げ遅れてしまうのか

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津波――大丈夫だろうと思う心理が悲劇に

 危機に際して、人はしばしば逃げ遅れる。逃げる時間が十分あったにもかかわらず、逃げずにいたために犠牲になることは珍しくない。その大きな理由の一つが、人が誰しも持っている「正常性バイアス」の存在である。人は危険を感じると、そのストレスを軽減するため、無意識のうちに、危険を見て見ぬふりをしようとするのだ。「これは異常な状態ではない。正常な範囲の一つだ」と自分を納得させるのである。

 東日本大震災の津波の被害に遭った人たちの行動には、そうした点が数多く見られた。

 宮城県教職員組合と宮城教育大学非常勤講師の千葉保夫氏が、国や県、市町村教育委員会から資料を集めて、宮城県内の小中学生の死者・行方不明者261人のうち188人の行動を丹念に調査したレポートがある(石巻市立大川小学校関係者で犠牲になった73人については、別に検証委員会が立ち上がっていたため除外されている)。

 そこで浮き彫りになったのは、約3分の2が津波のための避難を優先せず、別の行動をとっていたことだ。津波が押し寄せたとき、高台に避難するなどの行動をとっていたのは、188人中67人で、全体の36%にすぎなかった。残りは「自宅に向かう途中」だった子が35人、「自宅で待機中」が25人、「自宅の2階などに避難中」が13人。とりわけ残念なのは、いったん避難した後、あるいは避難の途中で、家に戻って被災した子が7人もいたことだ。なかには、避難先の祖父母宅でキャッチボールをしていて、津波の犠牲になった児童もいた。

セウォル号沈没事故――指示をひたすら待っていたばかりに

「正常性バイアス」に支配された結果、多くの人たちが犠牲になった典型的な例が、韓国の客船・セウォル号の沈没事故だった。

 2014年4月16日午前9時前、セウォル号は韓国南西部の珍島(チンド)付近で急旋回したことが引き金となってバランスを崩し、2時間ほどのあいだに沈没した。死者・行方不明者304人。過積載や操舵手のミスなど、複数の原因が重なった結果だった。

 船体が大きく傾いていくなか、拡声器からは「動かないで下さい。動くと危険です。動かないで!」という指示が流れていた。乗員・乗客475人のうち、325人を占めていたのは、修学旅行中の韓国の高校2年生。彼らのほとんどは素直にこの放送に従い、席のある4階に集まって次の指示を待った。

 ところが船長をはじめ主要な乗組員は、乗客に救命胴衣の着用こそ指示したものの、次の指示を出さず、無責任にも先に脱出してしまったのである。

 韓国・中央日報紙によると、助かった乗客の多くが、船内放送が聞こえなかったか、無視した結果、救助されたのだった。なかには、甲板で規則違反のタバコを吸っていたために助かった学生もいた。一方、船内放送の指示に従ったほとんどの学生は、沈没した客室に閉じ込められ、犠牲になってしまったのである。

 沈没の前に、数隻の船舶が現場に到着、乗客を救助する準備を整えていた。しかし、船から逃げようとする乗客の姿はほとんどなかったという。

 この不思議な行動についてロイター通信は、「年功序列、長幼の序を重んじる韓国社会では、上の者や権威に対する疑問を抱いたり、反論したりすることはない。多くの乗客が船側に完全に従い、逃げるチャンスを逸した可能性がある」と分析した。

川治プリンスホテル火災――生死を分けた二つの老人グループ

1980年11月、全焼した川治プリンスホテル雅苑。死者45人(うち宿泊客40人)を出す戦後最大のホテル火災となった=草刈郁夫撮影 (毎日新聞社)

1980年11月、全焼した川治プリンスホテル雅苑。死者45人(うち宿泊客40人)を出す戦後最大のホテル火災となった=草刈郁夫撮影 (毎日新聞社)

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 1980年11月20日午後3時12分ごろ、栃木県塩谷郡藤原町川治(現・日光市)の「川治プリンスホテル雅苑」火災報知機が激しく鳴った。

 このとき、ホテルの従業員は状況の確認をせずに「これはテストなのでご安心ください」と館内放送を流してしまった。ちょうどその1時間前に火災報知機のテストが行われていたので、勘違いしてしまったのである。だがこれは本物の火事だった。1階の露天風呂を解体工事している最中、そこで使われていたトーチランプが倒れて引火。作業員が休憩している間に燃え広がったのだ。

 季節はちょうど紅葉の真っ盛り。東京から二つの老人クラブの団体が紅葉見物を終えて、宿に着き、くつろいだところだった。

 それぞれの部屋に分かれ、お茶を飲んだりしていた老人クラブ「A」53人は、火災報知機の警報をテストだと信じた。「火災報知機が鳴ってるけど大丈夫かな」「大丈夫だよ、テストだって言ってたじゃないか」「でも様子が変だぞ。ほら窓の外で煙が上がってる」「ありゃ焚き火だよ」という具合に。ごく普通の出来事だと考えようとした。

 一方、老人クラブ「B」52人のリーダーは、非常ベルが鳴った直後「何があったんだろうか。ちょっと様子を見てくる」と立ち上がって部屋を出て行った。そして階段付近まで行って下から煙が上って来るのを発見、「これは大変だ」とすぐさま部屋に戻り、「様子がおかしい。とりあえず避難しよう」と、みんなを煙の少ない階段を使って避難させた。

 午後3時18分、また火災警報のベルが鳴った。さすがに様子がおかしいと、従業員が大浴場へ見に行くと、すでに炎と煙が回り、手のつけようのない有様だった。客室から見える窓の外の煙はどんどん濃くなっている。こうして避難が始まったが、悪いときに悪いことが重なった。ちょうど従業員の交代時間に当たっていて、避難指示をすべき人たちが少なかったうえに、ホテルが増築を重ねていたため通路が複雑で迷路のようになっていたのだ。加えて、避難するのは平均年齢72歳という老人であった。
 結果、宿泊客112人のうち40人が死亡。宿泊施設の火災としては戦後最大の犠牲者を出す災害となった。犠牲になった40人のうち36人は老人クラブ「A」の会員だった。「A」の人たちは、火事など起きるはずがないという「正常性バイアス」に支配されていたのである。このとき、老人クラブ「B」のリーダーは、日常のちょっとした異状に関心を示し、自分で確認し、避難を決断した。

JR北海道トンネル火災――指示に従っていたら死んでいた

 2011年5月27日午後9時55分ごろ、JR北海道石勝線の6両編成札幌行き特急が脱線。占冠(しむかっぷ)駅と新夕張駅の間にある「第1ニニウトンネル」(全長685メートル)の中に緊急停車した。

2011年5月、北海道・占冠村の特急事故で、激しく煙を上げるJR石勝線の第1ニニウトンネルの入り口=小川祐希撮影 (毎日新聞社)

2011年5月、北海道・占冠村の特急事故で、激しく煙を上げるJR石勝線の第1ニニウトンネルの入り口=小川祐希撮影 (毎日新聞社)

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 しかし停車から20分が過ぎても、「調べるのでこのままお待ちください」「車外には出ないでください」と乗務員は繰り返し、乗客の車外への避難を制止し続けるばかりだった。車両のどこかで火が出たらしく、後方の車内が煙でかすんでくる。車内の電灯が消え、乗客は携帯電話の明かりで周りを照らした。「どうなっているんだ」と詰め寄る乗客に、客室乗務員は「少々お待ちください」と繰り返すばかり。後方車両に煙が充満していることにやっと気づいた車掌が、「1~3号車(後方車両)のお客さまは4~6号車に移動してください」とアナウンス。だが車内放送はそれきりだった。

 時間がたつにつれて、移動した4~6号車にも煙が侵入してきた。5号車で、立ちこめる煙に苦しんでいた男性が「もう駄目だ。外に出て歩いて逃げよう」と言ってドアを開けたのは午後10時半ごろ。すでに緊急停車から30分以上がたっていた。男性が外に出ると、他の乗客もこれに続いた。こうして乗客248人と乗員4人は、煙で充満した暗闇のトンネルの中を500メートル近く歩いて出口へ向かったのである。

 ある乗客は「パニックではなく、整然と励ましあって黙々と歩いた。煙がすごく30センチ先も見えないほどだった」と話し、「乗客はみんな死ぬかもと思ったと思う。私もそう思った」と極限状態を振り返った(十勝毎日新聞2014年5月29日付)。

 全員がトンネルの外に避難したのは28日午前0時ごろである。同じころ、現場に駆けつけた警察官が火災であることを初めて確認。その後、消火に当たったが、車両は全焼した。

 JR北海道の発表によれば、運転士は、緊急停車させてから車外に出て車体下部を確認。車掌は2人の客室乗務員とともに乗客を4~6号車に誘導した後、1人で車外に出て、往復20分間歩いてトンネルの出口を確かめて戻った。だが、すでに乗客が降り始めていたため、前から3両目に乗り込み、後ろから乗客を押し出すように前の車両のドアへと誘導した、という。しかし、車外避難のアナウンスは放送していなかった。

 乗務員は「煙は確認したが、炎を見なかったので最後まで火災とは認識しなかった」という。

 乗客からはJRの判断の遅れに怒りの声が上がった。男性客の一人は「JRの人から、なぜ勝手に降りたのかと怒られた。自主的に避難したから助かったんだ。現場での判断が正しかったのか、しっかり検証してほしい」と話した(北海道新聞2014年5月29日付)。

 もし車掌の指示通り車内に留まっていたら――全員が煙に巻かれ、数多くの死傷者が出ることは容易に予想される。

 車掌はJR北海道のマニュアルに従って指示を出した。分からないところは、現場からはるかに離れたところにある指令センターに指示を仰いだ。

 防災システム研究所長の山村武彦氏は、現代人は「マニュアル至上主義のリアクションとして他の事には目を向けなくなり、それ以上の情報をできるだけカットしようとする」傾向があるが、肝心なのはマニュアルではなく「ほんのちょっとの『気づき』。こちらこそが防災・危機管理の基礎である」と指摘する(『人は皆「自分だけは死なない」と思っている』宝島社刊)。

 トンネル火災に遭遇した乗客たちは出火に気づき、危険を察知して列車から脱出して事なきを得たのだった。

 指示に従ったばかりに犠牲者が出たケースは、2001年9月11日の米国同時多発テロでも見られた。

 1機目の飛行機が世界貿易センタービルのノースタワーに激突した25分後に、このビルを所有するポートオーソリティ(港湾公社)の事務所の責任者が緊急対策本部に電話で問い合わせた。事務所はノースタワーの64階にあり、そこでは16人の職員が働いていた。このときの本部の指示は、「火が出ていないので、注意して非常階段の側にいて警官が上ってくるまで待機しろ」というものだった。そしてほぼ1時間後、事務所側が「煙がひどくなってきたから階段で下りたい」と警察に電話した。本部は「了解、脱出を図ってください」と指示。職員たちは階段を下り始めたが、ビルは途中で崩壊する。16人のうち14人が死亡し、2人が瓦礫の中から救出された。救援のエキスパートへの過度の信頼が、自衛・自助行動の開始を阻害してしまったのだった。

 自ら危険を察知し、事態を確認し、そしてリスク覚悟で避難を決断する――災害から逃れることのできた人たちの共通した行動だった。