経済
解説

【基礎知識】人は何のために働くのか――時代によって変わる労働観

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古代ギリシャでは労働は卑しいものとされた

 働く意味とは――古来、多くの哲学者や宗教家が思索したテーマだが、そもそも西洋と東洋では労働に対する基本的な価値観が違う。

 西洋思想の源とされる古代ギリシャでは、ポリスの貴族や自由市民は、農業、手工業、家事などの労働を奴隷たち(戦争に敗れて捕虜になった異国人や債務破綻者など)に担わせた。そこには「労働は神が人間に科した罰」いう前提がある。労働を卑しいものと見なした貴族や市民は、戦闘を除けばもっぱら政治や芸術などの精神活動に明け暮れた。

 ギリシャ神話には、天界の「火」を盗んで人間に与えた神、プロメテウスが登場する。最高神ゼウスは、未熟な存在である人間に「神の火」(=知恵)を与えることを危ぶみ、禁じていた。人間はその火を使って文明を発達させたが、案の定、愚かにも火を使って武器を作り戦争を始めるようになった。怒ったゼウスは、プロメテウスをコーカサスの山の頂に磔にした。さらに人間には、罰として大地を耕す労働を科した。自ら穀物を作って食物とするしか生きることができないようにした――労働=神の罰とする労働起源説である。

初期キリスト教では労働は「原罪に与えた罰」

 これによく似た物語に、キリスト教・ユダヤ教の正典『旧約聖書』の創世記に出てくる楽園追放のエピソードがある。天地創造が終わると、主なる神は、東方に「エデンの園」を設けて、食べるのに良いあらゆる木を植え、その中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を植えた。さらに、土から人類の祖であるアダムをつくり、エデンの園に住まわせた。このとき、神は「園のすべての木から実をとって食べなさい。ただし、『善悪の知識の木』からは決して食べてはならない」と告げた。その後、神はアダムの配偶者、エバをつくった。

 ところが、エバは蛇にそそのかされて禁じられた「善悪の知識の木」の実を食べてしまう。そしてアダムにも食べさせた。神はこれを知り、2人を楽園から追放した。その際、神はアダムには「死ぬまで額に汗してパンを得る」よう労働の苦しみを、エバには出産の苦痛を与えた。

 人間が知恵を得たこと(原罪)に対する罰として、労働が科されるというのはギリシャ神話と同じだ。

 時代が下って、キリスト教の正典『新約聖書』になると、すこし様相が変わる。『新約聖書』の「テサロニケ人への第二の手紙」には、キリストの弟子パウロの「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という言葉が記されている。各地で伝道活動に携わる使徒に向けて、「霊的な精神活動を重視するあまり、食物を得るための労働という世俗的な活動を軽視してはならない」と戒めたのだ。伝道者が、食物などを安易に信者や支援者に依存して生きることへの警鐘でもあった。労働はなお「労苦」であったが、原罪を負って労働に耐えることが信仰の証になると見なされたのである。

 聖職者に対するこの戒めは、やがて中世の修道院に受け継がれた。修道院は、自前の農地やワイン畑、工場を持ち、修道僧たちは労働による自給自足の信仰生活をめざした。森林を拓いて農地をつくり、農産物を栽培し、工場で日用品を作るという彼らの活動は、しだいに労働を「忍苦」からむしろ喜ばしいもの、意義あるものとする見方へ変えていった。そしてその労働観は、中世の生産活動や商業活動に影響を与えることになった。

勤勉な労働が魂を救済する――キリスト教の労働観

 労働についての考え方をさらに劇的に変えたのが、16世紀、マルチン・ルターやカルヴィンによって導かれた宗教改革だった。聖書をドイツ語に訳したルターは、与えられた職業を神から授かった使命と考え、「勤勉と倹約を心がければ魂の救済につながる」と唱えた。労働は原罪ではなく、隣人愛の具体的な表現であると、180度転換させたのである。この労働観は、その後、欧米の労働倫理の礎になった。

 米国の独立宣言や憲法の起草に関わったベンジャミン・フランクリンは、『フランクリン自伝』(邦訳は岩波文庫)や『貧しいリチャードの暦』を著し、英国から米国に移住した清教徒たちの、勤勉で禁欲的な暮らし方を綴った。彼らは、平日は必死に荒野を耕し、町をつくり、休日は協会に行き、神に祈りを捧げるという信仰心に満ちた生活を送った。フランクリンの考え方は多くのピューリタンに受け入れられることになった。彼の成功するための処世訓とは、

 たとえば、「明日やらなければならないことは、今日のうちにやってしまうこと。これが人生の秘訣である」「規則正しい生活は、人生に健康と富、そして賢明さを与えてくれる」「他人の短所を指摘するのではなく、長所を褒め称えなさい」「人間の幸福というのは、滅多にやってこないような大きなチャンスではなく、いつでもあるような小さな日常の積み重ねから生まれる」などなど。「頭が鈍るほど食べない
こと」から始まる「ベンジャミン・フランクリン13の徳目」は、いまも勤勉なアメリカ人のバイブルだ。

「良い仕事」と「悪い仕事」の違いとは

 18世紀半ば、英国から始まった産業革命は、人々の働く形態を一変させ、仕事観をも大きく変えた。職人の手仕事(天職)が減り、機械に合わせて働く工場労働に変わったのだ。そこから疎外感が生まれ、「勤勉な労働が魂の救済につながる」とするプロテスタントの「天職思想」に疑問が呈されるようになった。

 英国の詩人・デザイナーのウィリアム・モリスは、『有用な仕事と無用な労苦』を著し、仕事には、職人的な手仕事のように「休憩という希望、生産物という希望、仕事の楽しさ」がある「良い仕事」と、それらの要素のない工場労働のような「悪い仕事」があるといった。工場労働が主となる産業社会における仕事は、労苦にすぎず、奴隷のような「悪い仕事」だと主張したのである。

 高度に発達した産業文明への批判が起き、「人間中心」の労働への関心が高まるのは20世紀に入ってからである。『スモール イズ ビューティフル――人間中心の経済学』(邦訳は講談社学術文庫)の著者で、英国で活躍したドイツ人経済学者、シューマッハーは、「良い仕事」を「意義のある仕事」ととらえ直した。その仕事を得ることで「生活の必要性」と「自己充実」が満たされ、「他者とのつながり」が生まれると説いた。

 英国生まれの工場制機械生産は、20世紀の米国で、誰でも仕事がこなせるように標準化され、移動するライン上で流れ作業をする大量生産方式に改善された。これによって商品の大幅なコスト削減が可能になった。同じ頃、分割払いの消費ローンが開発されたこともあって、高値の花だった高額商品をふつうの人々が買えるようになった。かくして清教徒的な倹約と勤勉の精神は廃れ、消費生活を楽しむという新しいライフスタイルが生まれた。

 スピードと効率を要求された米国の生産現場では、仕事の達成感や充実感が失われ、人々は改めて「働くことの意味」を自問するようになった。その回答の一つが、米国の心理学者アブラハム・マズローが1960年代に提唱した「自己実現論」である。

 マズローは、人間は、(1)食欲・性欲・睡眠といった生理的(生存)欲求、(2)経済的なものを含めた安全・安定の欲求、(3)自分が社会に必要とされていると感じられ、どこかに帰属しているという感覚を含めた社会的な欲求、(4)自分が集団から価値ある存在と評価され、尊重されることを求める自我欲求、(5)自分の能力や可能性が最大限に発揮され、自分がなりたいものになることを求める自己実現の欲求、という5つの欲求を持っている。そして、最高位の自己実現に向かって絶えず成長する生き物である、と主張した(図参照)。この説に従えば、仕事も、この5つの欲求がすべて満たされたとき、生き甲斐や充実感を持てるということになる。

図1 マズローの欲求の5段階説

図1 マズローの欲求の5段階説

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日本人の職業倫理は江戸期から確立していた

 では、日本人の労働観はどう変遷してきたのか。身分制度が厳格だった江戸時代にも、武士道のような確固とした職業倫理があった。江戸初期、武士から僧侶に転じた鈴木正三は、『万民徳用』を著し、身分に応じた職業倫理を論じている。鈴木は、士農工商を身分ではなくそれぞれ対等な職分としてとらえ、職分の仕事を単にお金のためだけではなく、その仕事に励むことによって仏道の修行につながるというのである。

 鈴木の「職分思想」は、のちに江戸中期、商人道を説いて「石門心学」を興した石田梅岩や、江戸末期の農村改革で有名な二宮尊徳にも継承された。石田は、京都の商家に奉公しながら神道、儒学、仏教を学び、独自の哲学である「心学」を編み出した。当時、武士や儒学者からしばしば「商人は不当な利益を得ている」と蔑視する風潮があるなか、石田は著書『都鄙問答』(岩波文庫)のなかで、〈商人の其の始めを云ば、古は其の余りあるものを以てその足らざるものに易(かえ)て、互いに通用するを以て本(もと)とするとかや〉(商人の始まりとは、片方の余ったものを片方の足りないところに持って行き、お互いに補って役立てたことだった)と、商人の社会的な存在意義を述べ、商人が努力して利益を得ることの正当性に言及している。

 石田と同じように独学で「論語」などを学んだ二宮尊徳は、長年の貧困から農村を救う事業に携わった体験から「私利私欲に走らず社会に貢献すれば、いずれは自分に還元される」という「報徳思想」を構築した。二宮が残した名言の数々は、いまも多くの信奉者を集めている。なかでも、「万町の田を耕すも、その技は一鋤ずつの功による」など、毎日、勤勉に小さな努力を積み重ねることが大事をなすことにつながるという「積小為大」はよく知られている。その生涯で最大の功績は農村の復興だったのだが、日本人にとって二宮尊徳(金次郎)といえばもっぱら勤勉の代名詞となってしまった。

勤勉が称揚された明治の日本

 しかし、明治初期に来日した外国人の滞在記には、日本人は「実直」「礼儀正しい」「公衆道徳をよく守る」という記述こそ多いが、勤勉という評価はほとんどない。1877年(明治10年)に来日した御雇い外国人教師で、大森貝塚の発見者として知られる米国の動物学者E・S・モースは、その滞在記に〈自分たち外国人は、この国の人々が何をやるにしてもゆっくりしているので、ときどき辛抱しきれなくなる〉(『日本その日その日』東洋文庫)と記した。すでに産業革命を終えて、時間で働く工場労働者がいた米国を知っているモースの目には、日本人の姿がスローモーに映ったことは想像にかたくない。

 だが、モースの帰国後、日本は列強と肩を並べるために近代産業を育成し、富国強兵政策を推進した。学校教育も充実させた。小学校には大きな時計を置き、時間を意識させ、読み書きソロバンとともに集団のなかで時間を守る習慣を身につけさせた。会社や工場で働くことに適合するよう子供たちを教育したのである。小学校の国定教科書に、薪を背負いながら本を読む二宮金次郎が登場し、校庭にその銅像が置かれたのも、その一環だった。勤勉は、明治の初期教育が身につけさせたかった習慣であった。

 ただ勤勉であればよいわけではない、と説いたのは慶應義塾の創始者、福沢諭吉である。福沢は『学問のすゝめ』(岩波文庫)のなかで、古人は額に汗して働けといったが、ただ衣食住を満足させるだけの労働なら虫けらでもやっていること、それで満足する者には人間としての進歩がない、として、人々に学んで知識を高めることを勧めた。

 「人はパンのみに生きるにあらず。神の口から出る一つひとつの言葉で生きるものだ」(『新約聖書』マタイ伝)――東西を問わず、人間の労働には何らかの精神的な「意味」が必要なのは間違いない。掘った穴をまた埋めるような同じ作業をくり返す「達成感」のない仕事は、人間にとっては拷問同然となる。ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)によれば、シベリアの収容所にいたときのいちばん耐えられない仕打ちは、そのような無意味な作業だったという。ナチの強制収容所における体験を『夜と霧』(みすず書房)で描いた精神科医のV・E・フランクルも、同様のことを述べている。収容所の苛酷な労働環境に耐え、生き延びることができたのは、屈強な身体を持った者たちではなく、「生きる意味」を持ち続けていた者だった、と。