経済

【再録・日本の論点】働くことの意味なんて、上機嫌に働いている人だけしか分からないもの

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人間だけが労働する

 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。

(1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。

(2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。

 だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。

 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して取り置きしたり、それを交換したりはしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に2、3頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。

 どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲(はげわし)かあるいは地中の微生物かに)「贈り物」として与える以外には用途がない。

「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。そのような根源的なものについては、それが何かを一義的な言葉づかいで語ることはできない。たとえば、「言語とは何か」と私たちは問うことができるけれど、その問いは言語によって行うしかない。「貨幣とは何か」という本を書くことはできるけれど、その本を書いた経済学者はその印税の支払いをおそらくは貨幣で求めるはずである。労働もそれと同じである。

 人間以外の動物はしないことはたぶん労働である。「たぶん」という限定を付すのは、それが労働であるのかどうかは事後になって、それを「贈り物」として受け取る他者の出現を待ってしか判明しないからである。

価値を認める他者がいてはじめて労働になる

 ガレージにこもって基板にはんだ付けする青年がしていることが「労働」かどうかはその時点ではわからない(短期的スパンを取れば、消費するだけである)。だが、彼の作った電子ガジェット(*1=編集部注)が爆発的に売れて、気がついたら大富豪になってしまったということになると、回顧的には「あのとき彼は労働していたのだ」ということになる。

 どういう行為が「働く」ことであり、どういう行為がそうでないのかは、働き始める前にはわからない。働いて何かを創り出した後に、それを「欲望する」他者が登場してきてはじめてそれは労働であったことが遡及的にわかるのである。そういうふうに労働は時間の順逆が狂ったかたちで構造化されている。

 私の大学の同僚の島崎徹(*2)さんは少年の頃カナダに渡り、ダンスのレッスンを受けながら、レストランで皿洗いのバイトをしていたことがある。そのとき、島崎少年は独創的な皿洗いシステムを思いついて、それを提案して、受け容れられた。それから何十年か経って、世界的なダンサーになった後、島崎さんはかつて働いていたそのレストランを訪れてみたことがあった。ふと厨房を覗いてみると、人々は「島崎システム」で皿を洗っていた。

 佳話である。

 このとき、島崎さんにとって、皿洗いの経験は、その言葉の本来の意味において、労働になったのだと私は思う。ある仕事が数十年経って、「労働になる」ということがありうるのである。その人がなしとげたことの意味は、仕事そのものではなく、それが他者に何を贈ったかで決まるからである。

 島崎さんは皿洗いを通じて見知らぬ人々に(効率的で気分のよい皿洗いシステム)という「贈り物」をした。その「贈り物」を現に享受している人々がカナダの一隅に現に存在している。その事実によって、少年時代の労働は(当時受け取った賃金の他に)いくばくかの価値を加算されたのである。

「現に享受している」という言い方は正確ではないかもしれない。島崎さんは、おそらく皿洗いをしているときすでに、賃金以上のものを、未来において彼が開発したスキルの恩恵を受益する人々のことを想像するというかたちで、前倒しで受け取っていたはずだからである。そして、たぶんそのときすでに彼は例外的に陽気で働き者の皿洗いとして、厨房の雰囲気を明るくしていたはずである。

「島崎システム」の恩恵の受益者である「次代の皿洗い」はまだ出現していない。それは仮説的にしか存在しない。けれども、自分がなした仕事から何らかの喜びや愉悦や利益を受け取る他者がいつか出現するであろうという予測をもてるならば、それは、労働に今ここで価値を加算するのである。

「うちに来て働かないか」といわれるわけ

 逆の例を考えればわかる。地球最後の日に、生き残った最後の一人がいたとする。彼が画期的な癌特効薬を発明しようとも、宇宙の全事象を説明できる理論を完成させようとも、それはもう労働ではない。その成果を享受しうる他者がもうどこにもいないからである。労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである。

 何年か前、武術家の甲野善紀(*3)先生とレストランに入ったことがあった。私たちは7人連れであった。メニューに「鶏の唐揚げ」があった。「3ピース」で1皿だった。7人では分けられないので、私は3皿注文した。すると注文を聞いていたウェイターが「7個でも注文できますよ」と言った。「コックに頼んでそうしてもらいますから」。彼が料理を運んできたときに、甲野先生が彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう」。彼はちょっとびっくりして、「はい」と答えた。「月に一度くらい、そう言われます」。

 私は甲野先生の炯眼に驚いた。なるほど、この青年は深夜レストランのウェイターという、さして「やりがいのある」仕事でもなさそうな仕事を通じて、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいるのである。もちろん、彼の控えめな気遣いに気づかずに「ああ、ありがとう」と儀礼的に言うだけの客もいただろうし、それさえしない客もいたであろう。けれども、そのことは彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。その構えのうちに、具眼の士は「働くことの本質を知っている人間」の徴(しるし)を看取したのである。

「ありがとう」を求めて私たちは労働する

 働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものである。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。

 その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。

 今、若い人たちがうまく働けないでいるのは、そのことに気づいていないからだと思う。彼らは「働くとはどういうことか」についての定義があらかじめ開示されることを求める。働くとどういう報酬が自分にもたらされるのかをあらかじめ知りたがる。それが示されないなら、「私は働かない」という判断を下すことも十分合理的だと考えている。けれども、残念ながら、「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。

(この論文は、ご本人の了解を得て『日本の論点2010』より再録させていただいたものです)

【編集部注】

*1 電子ガジェット

目新しい道具や面白い小物といった意味を持つ携帯用の電子機器。主に、スマートフォン、携帯電話、小型デジタルカメラ、デジタル携帯オーディオプレーヤー、ICレコーダー、PDA(携帯情報端末)、携帯ゲーム機などを指す。単体で動作する機器を指すことが多いが、USBメモリやWebカメラなども電子ガジェットの一種とみなされている。

*2 島崎徹

1963年生まれ。神戸女学院大学音楽学部教授(舞踊)。81年、奨学生としてGOH BALLET ACADEMY(カナダ)で舞踊全般の教育を受ける。90年より、SITTER SCHOOL OF DANCING(カナダ)のバレエ部門主任兼振付家。98年、日本舞踊批評家協会新人賞受賞。99年、スイス・ローザンヌ国際バレエコンクールで審査員を務める。同コンクールでは課題コンテンポラリーダンスの振付も担当した。

*3 甲野善紀

1949年生まれ。武術研究者。78年、武術稽古研究会「松聲館」を設立。他流儀や異分野との交流を通して、古流の武術を研究している。2007年から3年間、神戸女学院大学客員教授も務めた。著書に『驚くほど日常生活を楽にする武術&身体術「カラダの技」の活かし方』『古武術に学ぶ身体法』『身体を通して時代を読む』(内田樹共著、バジリコ)など。