経済

【再録・日本の論点】社会から承認されているという実感――それは、希望であり、働く理由だ

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高度成長期は働く理由を求められなかった

 働くとはどういうことなのか。この素朴ではあるが、しかし重要な問いかけにどう応えたらいいのか。生きる糧を得るため。これが最もありきたりの答えかもしれない。しかし、人はパンのみに生きるにあらず。

 就活でへとへとに疲れ、平身低頭、靴が擦り切れるほど企業回りをしたあげく、結局、職が見つからず、アルバイトやフリーターで当面を凌がなければならない若者たちが増えている。そんな若者たちにとって、どうして働かなければならないのか。何のために働くのか。そんな疑問が湧いてきても決して不思議ではない。

 高度成長期であれば、働くことは労働とイコールであり、労働のなかでも賃労働が大きなウェートを占めていた。労働は、価値を産み出す源泉であり、その対価としての賃金をベースとする所得が家計を支え、さらに消費や貯蓄が一国の経済の土台を支え、そして税金が国と地方の財政を支える。公共投資や企業の設備投資を通じてより多くの雇用の機会が生まれ、ベースアップや昇給が望める。

 こうした経済の循環が、労働力を供給する人的資源の育成や企業内労働組合(*1=編集部注)、年功序列や終身雇用などのさまざまな制度的な複合体と結びついて、日本を経済大国に押し上げた。このような社会構造が経済成長の土台となっている時代には、働くことは、すなわち労働であり、労働は、すなわち一人前の証しという不文律が成り立ちえた。

 労働における疎外や低賃金の問題、あるいは労働災害など、数々の問題を抱えながらも、労働が価値の源泉であり、労働によって人は一人前の大人になるという目に見えない規範のようなものが揺らぐことはなかった。

労働の概念を変えた消費社会と市場経済

 しかし、やがて労働ではなく、消費に価値を見いだすポスト・モダン的な消費社会へと移行するにつれて、労働の時間は余暇やレジャーと相対立する「憂鬱な」時間と見なされるようになった。もちろん、労働が生き甲斐であり、働くことに積極的な意味を見いだす考えが廃れていったわけではない。

 しかし、バブル経済の「地価資本主義」が列島の津々浦々を席巻し、土地を中心とする不動産が資産価値の源になるにつれて、もはや平均的な生涯賃金をもってしてもマイホームのささやかな夢すら覚束なくなり、労働の価値への神話が崩壊しはじめるようになる。地代や株式といったストックの有無や多寡が消費社会の「幸福度」を決定する尺度になったのである。

 だが、バブルも儚く潰え去ると、資本の自由化や情報化をテコとするグローバルな金融経済が世界を覆い、同時に製造業などの生産システムに情報化の波が押し寄せ、もはや労働力を国内に限定された人的資源だけに頼る必要がなくなった。したがってその再生産のためにさまざまな給付や福利、トレーニングや国民教育といったコストをかける必要もなくなった。生産拠点の海外展開を図れば、単純労働力はもちろん、半熟練力、熟練労働力すらも、国内よりも二分の一、三分の一の低コストで調達できるようになったのだ。

 こうしていまや、労働力は、たんに人件費に算定されるコストに過ぎず、いくらでも代替可能な「モノ」のような存在とみなされるようになった。

働くことで他者と、社会と繋がる

 とはいえ、労働力という「商品」が生身の人間によって担われている以上、たんなるコストとして処理されるわけではない。この労働力という「商品」は、感じ、考え、行動し、家族や社会との結びつきの中ではじめて存在できる。

 秋葉原無差別殺傷事件(*2)の犯人が、派遣労働者の我が身を、いくらでも取り替え可能な「モノ」のような存在と慨嘆してみせたのも、そうした事情と関連している。まさしく生物学的な存在の再生産としかみなされない労働に、はたしてどんな意味を見いだしたらいいのか。生涯にわたって非正規の派遣労働を繰り返さざるをえない若者にとって、労働は生物学的な存在の再生産に必要な「労苦」以外のなにものでもない。

 その日の仕事の有無を知らせる携帯の着信を待ち、言われるままに仕事の現場に赴き、次の日には別の現場に派遣される。仕事にあぶれれば、雨露をしのぐ寝ぐらを定めることも覚束ない。そんな若者たちが、派遣村に救いを求めたのである。

 モノとしてしか扱われない労働力と化した人間に、社会の居場所があるとは思えない。そのような扱いしか受けない労働に働きがいを見つけることは不可能だ。しかも、そうした労働にすらありつけず、路上生活を余儀なくされる、そんな寒々とした光景が、経済大国、日本で決して稀なケースではなくなっているのである。

 就活が不発に終わり、職にありつけない若者たちが、そうした派遣労働者や路上生活者の未来しか思い描くことができないとすれば、働くことへの意欲は削がれてしまわざるをえない。孤独感を深め、自分だけの世界に内向化していく若者たちが増えているとすれば、それは働くことを通じて他者と、社会と繋がっているという実感を持ち得なくなっているからである。

 働くということは、たんなる生物学的な存在の再生産の糧を得ることではない。またカネ儲けやステイタスを得るためだけでもない。もちろん、そうした動機から働くことに意欲をもち、そこに意味を見いだすこともある。ただ、どんな動機からであるにしても、働くことに共通しているのは、それを通じて見ず知らずの他者からの「アテンション」(配慮)を受け、自分がこの社会で生きていてもいいという承認を得ることである。そうしてはじめて、わたしたちは匿名の他者に「アテンション」を投げかけ、承認を与えることができるのである。つまり、働くことは、そうした相互承認を作りだし、またそれを通じてわたしたちは自らの居場所を見いだし、社会というものを実感できるようになるのである。

 もしそのような「アテンション」を実感できない若者がいるとすれば、どうして他者への、社会への関心を持つことができるであろうか。他者とのきずなが断ち切られ、見放されているという感覚しか持ちえないとすれば、希望などどこにも見いだせないのではないか。

働く意味を喪失した社会に希望はない

 日本には何でもある、ただ希望だけがない(*3)。現在の日本は、こんなセリフを吐きたくなるほど、人と人とのきずなが見失われ、希望が見えない社会になってしまった。世界一安全で、秩序だった社会で、どうしてこうも深い霧が垂れ込めているような閉塞感が漂っているのか。

 もっとも、こうした物言いは悲観的すぎるし、事柄の一面しか言い当てていないという反論もありうる。だが、経済協力開発機構(OECD)に属している「先進諸国」の中で日本の自殺率は群を抜いている。この一一年にわたって毎年、3万人以上の自死を選ぶ人々を生み出している異常さだ。しかも相対的貧困率の高さは最悪といっても言い過ぎではない。

 こうしたデータの背後には、これまで述べてきたような労働環境や社会構造の変化、それに誘発される働くことをめぐる「意味の喪失」といった深刻な現象がはびこっているに違いない。

 大切なことは、働くということが、社会における相互承認を生み出す最も重要な活動であり、それを可能にする社会的な制度やルールをしっかりと構築しておくことである。働くことの意味は、個人の労働倫理や価値だけから生み出されるわけではない。制度と倫理が一体となり、働くことを通じて自らがしっかりと社会に「着床」しているという実感を持つことが出来るとき、わたしたちは他者から、社会から「アテンション」を受けているという実感を持つことができるのである。そしてはじめて、わたしたちは他者への、社会への配慮を自ずと育んでいくことができるのである。

 「幸せ」は、純粋に私的なものから発し、私的なものに終わる場合がある。それこそ、おいしいモノを食べた後の満腹感に至福のひとときを感じるときがそうである。しかし、希望は、たとえ私的なものから発していようとも、それは他者とともに分かち合うものである。満腹感から思わず「ああ、幸せ」という言葉が出ても、「ああ、希望がある」とは言わない。希望は、「Together」(一緒に)であることによって生きる喜びを指し示す。働くことの意味が失われるとき、希望もまた失われざるをえない。

「Together」(一緒に)、この呼びかけに若者たちがふたたび集う光景に希望を託したい。

(この論文は、ご本人の了解を得て『日本の論点2010』より再録させていただいたものです)

【筆者が推薦する基本図書】

●マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)

【編集部注】

*1 企業内労働組合

企業ごとに常勤の従業員だけで組織された労働組合。人材の流動性が高い海外では、労組といえば同じ職業の人たちによる職業別労働組合や同じ産業の人たちによる産業別労働組合が中心である。しかし、日本では企業内労組が主流であり、それが年功序列や終身雇用と並んで日本的経営のひとつといわれる。企業内労組は、企業の代表も組合の代表も同じ企業に所属しているため、経営陣と労組の対立があまり激しくならず、「御用組合」と批判されることもある。

*2 秋葉原無差別殺傷事件

2008年6月8日、東京・秋葉原の交差点にトラックが突っ込み、横断中の人たちを跳ね飛ばした。トラックを降りた犯人・加藤智大(当時25歳)は、奇声をあげながら通行人をダガーナイフで次々に刺して逃亡。警官に捕まるまでの5~10分間に男女7人が刺殺された。加藤は職を転々としており、事件当時は大手自動車会社の派遣社員だった。「生活に疲れた。世の中がイヤになった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と供述している。裁判では1審と2審で死刑判決、2015年2月2日、最高裁で被告側の上告が棄却され、死刑が確定した。

*3 希望だけがない

村上龍の小説『希望の国のエクソダス』(文春文庫)の中で、505人の不登校中学生たちを組織する天才少年「ポンちゃん」が、国会に招致されて述べるセリフ。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」