経済

【再録・日本の論点】アルバイトでもいい──どんな仕事でも正面から向き合えば天職にできる

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カネなし、コネなし、学力なしの私が選んだ道

「天職」とは何であろうか。「天職を見つけた」、「天職に就くことができた」などと耳にすることがあるが、それははたして転職サイトで見つけるものなのだろうか。文字通り「天から授かるもの」なのだろうか。

 私も普通のサラリーマンではあるが、社会人として15年以上も勤めていると、入社したばかりの新社会人などから相談を受けることがある。

「今の仕事は天職じゃないと思うんです。面白くないし、もう辞めたいんです」

 大体の子たちがそんな具合だ。

 私は社会人になりたての頃、トヨタのメカニックとして仕事と向き合ってきた。メカニックという道を「選んだ」というよりも、それを「選ぶしかなかった」と言える。

 学歴もなければ学力もない。カネもコネもない。「多汗症」(*1=編集部注)という病気や「色弱」という身体的ハンデを負っていたために、選べる仕事の数が少ない。そんな状態のなか、人より少しだけ経験のある「自動車を直す」という点を頼りに、その道に進むことを決意した。

 何とかトヨタに入ることは出来たが、トヨタ直系の専門学校を卒業してきたエリートの同僚と比べられ、仕事を割り振ってもらえない状態になってしまったこともある。仕事上のミスを続けてしまい、鉄拳制裁をもらってしまったこともある。何度も辞めてしまおうかと考えた。それでも、自分が選んだその仕事に食らいつくしかなかった。他に逃げる道が無かったのだ。

 だが、そうやって一つの仕事に必死で向き合ってきたことで、見えてくる物があったのである。

「効率的に仕事を遂行していくためにはどうしたら良いのか」

「仕事というものに対して、どんな心構えで臨めば良いのか」

「生きていくうえで大切な考え方とは何なのか」

 メカニックという一つの仕事を通じて、そんな「仕事や人生における普遍的なマインド」を学ぶことができたのだ。しかもこれは、どの業界に行っても通じるものであった。

晴れた日にワイパーを動かすのは理由がある

 現在はIT企業で新しいサービスの開発やマーケティングなどに携わっているが、全てはメカニックの時に学んだことの応用だったと感じるのだ。

 たとえば、「ワイパー」から学んだことがある。ワイパーはご存知の通り、雨の日に窓ガラスの雨水を掃ける装置だ。雨の日に使えば良いと考えるかもしれないが、メカニックは晴れた日に必ず動かすようにしている。素材がゴムで出来ているために、晴れの日が続いてしまうとゴムが硬くなり、いざ使おうと思ったときには能力を発揮しなくなってしまうからだ。そのために、晴れている日でも常にワイパーを動かすのである。

 これは、ビジネスマンの理想のスタンスと言っても良いだろう。いつ出番が来るかわからないが、いつその時が来てもいいように、常に準備をしておくことが大事なのである。

 それから、バックミラーから学んだこともある。会社の車を駐車場に片付けるとき、後ろを見ながらバックしていたら車の横を擦ってしまった。それを見ていた先輩に、こう言われたのである。「後ろを見ているだけでは視野が狭い。ルームミラーとサイドミラーの三つを見ろ」と。後ろに下がるのだから、後ろを直接見ていれば良いと思っていたのだが、そうではなかった。

 車に取り付けられた三つのバックミラーを見ることで車の位置を把握することができ、そこで初めて操ることができるというのである。これもまた、仕事に当てはまることだ。一つの角度だけから物事を見るのではなく、あらゆる角度から見ることで位置関係を把握することができ、客観的かつ冷静に対応することができるのである。

 このように、仕事上の一つの事象も、突き詰めていくといろいろな事柄に結びつく「教え」と変化していくのではないだろうか。

今の場所で能力が出せないのに他で出せるか

 そんな経験をしてきた私が、先の「辞めたい」という新社会人らにどういった話をしているか。

 まずは「今の仕事でどれだけの結果を残したの?」と、聞くことにしている。

 目の前の仕事に向き合い、ひたむきに取り組んで結果を残す。そうすれば、次の道が見えてくるはずなのである。その「先にある道」を見ずに、早くから諦めてしまう人が多すぎはしないだろうか。新社会人の中にも、こう言ってくる子がいる。「ここでは結果を残していないかも知れませんが、環境が自分に合っていなかっただけです。他に行けば大丈夫です」と。

 この言い分に対しては、日本IBMの最高顧問(現・相談役)である北城恪太郎氏の言葉を引用させてもらうようにしている。

「今いる場所で努力をしない人、成果を出さない人が『他に行けば能力を出せる』と言っても、他部門の人がそんな人に入って欲しいと思うだろうか」

 そう、どんな環境に置かれていても不平不満を言わずに結果を出す。そんな人にこそ、チャンスは巡ってくるものなのである(*2)。

 もちろん、その仕事に対して初めから高い志をもっていることが理想ではある。ただ、たとえば小学校の頃からメジャーリーグを目指していたイチローなどは非常に稀なケースだ。20歳を過ぎてもやりたいことが見つからない人がほとんどなのだから、それでいい。だから、やりたいことが見つからないと言って「生きている意味があるのか」とか「自分はどうせ」などと卑下するのではなく、とにかく現状において目の前のこと、目の前のお客さんと必死に向き合うことが大事なのである。

 たとえばコンビニのバイトをやったとしたら、どうしたら良いだろう。

「どうすればお客様に気持ちよく買い物をしてもらえるか」

「お釣りを渡すときにはどうしたら良い印象を与えられるか」

「サービスで他のコンビニとの差別化を図るにはどうしたらよいか」

 新聞配達のバイトをやったとしたら、どうしたら良いだろう。

「どうすれば効率的に多くの新聞を配ることができるだろうか」

「どうすれば短時間で配りきることができるだろうか」

「お客様が新聞を受け取ったときに何か喜んでもらえるような工夫は出来ないだろうか」

 私なら、そんなことを考え続けるはずだ。

 そうやって、どんな仕事でも考えに考え抜くことで、知恵が磨かれていき、心が鍛えられていき、周りから認められ、真に成長していくものなのではないだろうか。

「日本一の下足番」を誰も放ってはおかない

「自分は大学を出ていないから」とか「どうせアルバイトだから」などと言う若者も多いが、今の自分の身分や立場などは全くもって関係がない。厳しいことを言えば、それはただの言い訳に過ぎないのではないか。

 ヒューレット・パッカードというパソコンメーカーのCEOだったカーリー・フィオリーナは、元々ただの受付嬢だった。そこからキャリアを積み上げて、まだまだ男性優位だった社会の中で一大企業のCEOにまで駆け上がった。また、Web上のコミュニケーションサービスを展開するオウケイウェイヴの兼元謙任社長に至っては、もともとホームレスだった。1台のPCだけが財産で、公園やトイレなどでWebサイトを製作しながら、上場企業にまで成長させたのである(*3)。

 必ずしも社長を目指せと言っているのではない。命さえあれば、いつの時代でも、何かの職業には就けるのである。

 阪急阪神東宝グループの創業者である小林一三氏(*4)が、かつてこんなことを言っていた。

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうすれば誰も君を下足番にしてはおかぬ」

 そう、この言葉こそ、働く人すべてに当てはまることだと思うのだ。

 つまるところ、天職というのは「天から授かった仕事」ではなく、「仕事において天から授かった能力に気づくこと」ではないだろうか。「天職に就く」のではなくて「天職にする」のである。

 読者の皆さんも、今やっている仕事と正面から向き合って、ひたむきに取り組んで、自らの「天職」にしてみてはいかがだろうか。

(この論文は、ご本人の了解を得て『日本の論点2010』より再録させていただいたものです)

【筆者が推薦する基本図書】

●田坂広志『仕事の報酬とは何か――人間成長をめざして』(PHP文庫、2003年)

●稲盛和夫『働き方――「なぜ働くのか」「いかに働くのか」』(三笠書房、2009年)

●福島正伸『どんな仕事も楽しくなる3つの物語』(KADOKAWA、2014年)

【編集部注】

*1 多汗症

〈そもそも、生まれつき「多汗症」という病気を抱えていたボクは、常に手のひらに汗をかいていた。普通の人であれば、緊張したときかなんかに出るんだろうが、ボクの場合はどこかのスイッチが壊れているかのように、いつも汗をかいていた。暑い日も、寒い日も、朝も夜も関係なかった。そのせいで、手のひらの皮はよくめくれていたし、テストの答案などはフニャフニャになってしまう〉(原マサヒコ『人生で大切なことはすべてプラスドライバーが教えてくれた』経済界)。細かい作業がしにくいため、筆者は多汗症を治す手術をして、トヨタの技能オリンピックに臨み、優勝した。

*2 チャンスは巡ってくる

1993年から99年まで日本IBMの社長を務めた北城恪太郎氏は、同期の中では出世が遅れていた。自分では努力していたつもりだったので上司にいうと、「実力もないのに管理職に登用されると必ず失敗して、仕事ができないと烙印を押されるだけ。実力がつくまで第一線にいたほうがよい」と諭された。〈目の前の仕事に努力して成果を出せば、結局は評価してくれました。組織で働いている以上、まったく不満のない状態などありません。でもいま評価されないからといって、腐る必要などないのです〉(北城恪太郎『経営者、15歳に仕事を教える』丸善)。北城氏が役職についたのは36歳のときだった。

*3 兼元謙任

愛知県立芸術大を卒業後、デザイン会社などに勤めながら仲間と起業をめざす。だが、仲間割れから起業は失敗、東京で再起しようとするがうまくいかず、ホームレスをしながら仕事を請け負う生活へ。顧客の要求以上の仕事をしつづけたことが脱出のきっかけになったという。一人で苦労した時代の経験からQ&Aサイト「OKWave」のアイデアを思いつき、一般向けのほか、企業向けのFAQ制作なども手がけている。

*4 小林一三

宝塚歌劇団生みの親、小林一三(中央)。1939年、「日独伊親善芸術使節団」として初の欧州公演を終えて帰国した団員たちとともに(毎日新聞社)

宝塚歌劇団生みの親、小林一三(中央)。1939年、「日独伊親善芸術使節団」として初の欧州公演を終えて帰国した団員たちとともに(毎日新聞社)

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小林は希代のアイデアマンであった。明治43年、梅田―宝塚間に鉄道を開業したものの、後発だったので、郊外に路線を引かざるを得なかった。だから乗客は少なかった。そこで、小林は自ら宣伝文をつくって駅に貼り出させた――「綺麗で、早うて、ガラ空きで、眺めの素敵によい、涼しい電車」。

昭和恐慌の不景気で、カレーライスが売り物だった阪急百貨店の食堂では、ライス(五銭)を注文して、備えつけのタダのソースをかけて食べる客が増えた。しかし小林は、「ライスだけのお客様歓迎します」という貼り紙をした。彼らはいまは貧乏だが、結婚して子どもができたら、懐かしくなって、必ずまた家族連れで来てくれる、というのが理由だった。

一寒村にすぎなかった宝塚に一大歌劇場を築いたのも、鉄道の乗客を増やすための小林の思いつきによる。こうした着想が、のちに、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体で進め、相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型となった。